カテゴリー:日本史の通史
征夷大将軍・徳川家康 ~関ヶ原の戦い~豊臣秀吉の死から2年余りたった1600年(慶長5)9月15日、美濃国(岐阜県)関ヶ原で、「天下分け目」とよばれる大合戦が始まった。一方は、東から約10万の兵を率いて進んだとぐ川家…
大陸征服の夢 ~豊臣秀吉~1591年9月、秀吉は諸大名に朝鮮出兵の準備を命じた。と同時に、黒田長政・小西行長・加藤清正など子飼いの大名に銘じて、出兵基地と定めた肥前(佐賀県)の名護屋に築城をはじめさせた。このころ秀吉は、すでに九州・…
天下統一の完成大坂築城以後も、秀吉による天下統一の歩みは、順調そのものであった。暗いも、正二位内大臣従一位関白(1585年・49歳)・太政大臣(1586年・50歳)となり、天皇から豊臣の姓をたまわって、豊臣秀吉と改名もしている。一方…
大阪城の築城柴田勝家をほろばした年(小牧・長久手の戦いの前年)、秀吉は大阪・石山の地に壮大な城を築きはじめた。秀吉は、主君信長が安土城を築いたのにならって大坂城を築き、ここを天下統一の拠点にしようとしたのである。同時にそれは、世の中…
天下人への道本能寺の変、そして主君信長の死。それは秀吉が「天下人」への第一歩を踏み出すきっかけになった事件であった。このとき秀吉は、備中・高松城攻撃の最中であったのだが、信長の死の知らせがあったとき、家臣黒田如水(孝高 よしたか)が…
織田信長の死18歳で織田家を継いだ信長は、それから30年の間、戦いに明け暮れる日々を送った。そして、ときには行く手をはばむ者を徹底的に破壊筑紫、またあるときは、進んであたらしいものを取り入れながら、新しい時代を築こうとつとめた。しか…
比叡山の焼き討ち焼き討ち、皆殺しといえば、1571年9月に行われた比叡山延暦寺の焼き討ちも、すさまじいものであった。延暦寺は、信長に敵対した浅井・朝倉軍を助けていた。これを怒った信長は、ついに比叡山攻…
信長像 『地図で訪ねる歴史の舞台』帝国書院より 安土町 『地図で訪ねる歴史の舞台』 帝国書院より破壊と建設「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」というのは、織田信長の性格や行動をよくあらわしている…
信長と将軍義昭足利義昭は、第13代室町将軍義輝の弟である。このころ室町将軍の力はすっかり衰えていたが、松永久秀と三好義継は、さらに義輝を殺して室町幕府の実権を手中に収めていた。その頃奈良興福寺一乗院の僧になっていた義昭は「将軍職を継…
「天下布武」の歩み ~ 美濃攻め ~東海道の今川氏をおさえ、徳川家康と同盟を結んだ信長が、次の目標にしたのは、美濃(岐阜県)の斎藤氏であった。すでにこのころ、「まむし」とまでいわれた斎藤道三は、子どもの義竜と戦って敗れ、この世を去…