室町幕府の滅亡 ~信長と将軍義昭~
信長と将軍義昭
足利義昭は、第13代室町将軍義輝の弟である。このころ室町将軍の力はすっかり衰えていたが、松永久秀と三好義継は、さらに義輝を殺して室町幕府の実権を手中に収めていた。その頃奈良興福寺一乗院の僧になっていた義昭は「将軍職を継ぐのは自分」とばかりに、各地の大名に助力を頼むとともに、越前の朝倉氏のもとに身を寄せた。この義昭を助けて京都に上り、松永・三好の軍を追い払って将軍職につけたのが、織田信長である。信長35歳、義昭32歳のとこのことであった。
しかしこの後、義昭と信長の仲は悪くなる一方であった。義昭はあくまでも将軍としてふるまい、信長を臣下のように扱おうとする。ところが信長は、義昭を主君とは思っていない。実力で戦国大名にのしあがり、京都にもで上った信長にすれば、古い権威にしがみついている将軍職など、利用するものでしかなかったのであろう。これでは二人はうまくいくわれがない。義昭は、ついには諸大名に働きかけて、信長討伐のはかりごとを進めるようになったのである。
室町幕府の滅亡
1572年は、織田信長にとって試練の年であった。信長はこのとき39歳。三方ケ原では、家康との連合軍が武田軍に敗れ、また、前年の比叡山焼き討ちで、公家はもちろん民衆からも「鬼か悪魔か」と恐れられ、見捨てられようともしていた。大坂では石山本願寺の勢いがますますさかんで、長島や雑賀(さいが)の一向一揆を指導していた。姉川の戦いに敗れたとはいえ、浅井・朝倉両氏も虎視眈々と再起を図っていた。将軍義昭が描いた、信長包囲網がまさに完成しようとしていた。そしてその要として望みをかけられたのが、武田信玄である。その武田軍が都に迫ってくる。信長は絶体絶命の窮地に陥ったのである。この姿を見て、義昭は本性を現した。二条城に立てこもって信長に反旗を翻したのだった。ところが、信玄の急死で危機は去った。信長は二条城や義昭が逃げ込んだ槙島城を攻めたてた。進退に困った義昭は、信長の陣を訪ねて許しを請う。信長はこれに会おうともせず、義昭を追放したのである。ここに、15代200年の室町幕府は滅びた。