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歴史ネタ帖

海を渡った遣米使節  

海を渡った遣米使節

 万延元年(1860)1月、つまり、安政の大獄で吉田松陰や橋本左内が処刑されたすぐ後のこと、アメリカの軍艦ポーハタン号が江戸湾を出発し、アメリカへ向かった。

 この軍艦に同乗したのは、正使の外国奉行・新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)、福使の村垣淡路守範正(むらがきあわじのかみのりまさ)をはじめとする77人の使節団の一行である。彼らは、この少し前に結ばれた日米修好通商条約本書批准交換のために、幕府の命令で、はるばる太平洋を渡ってアメリカに行くことになったのである。
 もう一隻、忘れられない軍艦がある。勝海舟を艦長とする幕府の軍艦「咸臨丸」がそれである。こちらにも、士官・水夫・従者ら96が乗り込んで、ポーハタン号とおなじときに江戸湾を出発してアメリカへ向かった。主な目的は、ポーハタン号に乗っている使節の護衛、そのほか、この機会にアメリカの様子を実際に見るという目的ももっていた。

 

海を渡った遣米使節

 ただ、これら173忍の人々の心中は、それぞれに複雑であった。なにしろ行き先は、日本に強引に開国をまり、無理やりに条約を結ばせたアメリカである。その強引さに反感をもち、“アメリカにくし”と考えてる之も少なくなくない。
 それに、アメリカやヨーロッパの人間は野蛮人だという偏見は、このころ根強く広まっていた。多くの人が開国に反対したのも、そのような考えがもとにあったからだといわれているほどだから、使節団の中に、その考えをもつ物がいたとしても無理はあるまい。

 その一方、まだ見ぬアメリカに強いあこがれをもつ者も少なくなかった。「あのすばらしい軍艦は、どうやってつくったのだろう」「世界の強国といわれるアメリカでは、人々はどんな暮らしをしているのだろう」などと考え、ぜひ一度、じつくりと見たものだとあこがれたのである。

 

上下の別

 船中のことであるが、地位が低いと思われる水夫でも、船長の前で丁寧なおじぎをしない。ただ帽子をとるだけ

である。船長もまたいばらないし、水夫たちと友達のように話し合っている。けれども、いざ事が起こると、お

のおのが力を尽くして助け合う。また、悲しいことがあると涙を流して慰めあっている。こんなみとはわが国で

はみられないことだ。
 この人は、アメリカ人の間に上下の別がほとんどないことにおどろいているのである。上下の別といえば、国王

と同じような地位にある大統領も、日本の天皇や将軍とはずいぶんちがっている。

 大統領ブカナンは、年は70歳余り、おだやかだが威厳のある老人である。しかしその服装は、普通の商人と同じもので、何の飾りもない。大統領が出入するときも、特別の合図があるわけではないし、彼が他の人と話をしているのを、だれがそばで見ていようと、とがめる者はいない。われわれは、大統領に会うというので、わざわざに特別に着替え、正装したのだが、上下の別の礼儀もないこの国では、それはまったくむだなことであった。

 

 

 

 

 驚きの連続

 ポーハタン号に乗った使節団の一行は、30日余りの航海の後、アメリカ西海岸サンフランシスコに着いた。ここから南に下がってパナマへ、さらに東海岸を北上して、首都ワシントンへと旅したのであるが、その間、一行は羽織袴の正装に、腰には大小の刀をさし、「われこそ日本のサムライである」という意気込みで、堂々とふるまっていた。
 アメリカ人の歓迎ぶりも、大たいへんなものであった。宿舎になったワシントンのウイラード・ホテルのまわり

には、一目でも使節をみようとする人々の黒山のように集まって来たし、ある新聞は」日本人は、たいへん聡明な顔つきをしており、物わかりも早い。たいていは背が低いが、非常に上品であり、女性的にみえるほどである」という意味の、好意的な記事を載せるほどであった。

 しかし、そのような大歓迎の中で、表向きは堂々とふるまいながらも、使節団の心中は決しておだやかではなかった。なにしろ、驚くこと、見たことも聞いたことも、それに考えたこともないようなことが多すぎるのである。

 使節団の一行の中には、毎日のように日記をつけていた者がおおいのだが、その日記には次のようなことも記されている。

 

 女性の地位

 アメリカの男性が、女性を大事にすることについても、使節団の人々の驚きの目を見張ったらしい。「この国では、女性は、男よりもよほどとうとばれている。例えば、椅子がたりないときには、男は女性を座らせてそのそばにたっている。妻が水を飲みたいときは、夫に持ってこさせる」

 このようなことは、そのころの日本ではかんがえられもしなかった。武家の社会ではこのころ、女は男に従うもの、女は男に家来のように仕えるものと考えられて、妻が不都合なことをしたときには、切り殺されても文句がいえなかったのである。​

 

 

パナマの鉄道

 ワシントンへの旅の途中、パナマ地峡を通ったときのことである。このころ、パナマ運河はまだできていなかったので、一行は地峡横断鉄道で大西洋側にでることになっていた。ところが、ほとんどの者が汽車にのったことがない。
 「その速いことといったら、まるで矢がとんでいくようだ、窓の左右には草木がはえているのだが、その草木の形もはっきりとはわからない。また、走るときの音は、数千の雷が頭の上で鳴っているようで、どんなに大声をだしても、そばの者と話しができないほどである。」

 

岩倉使節団 ~アメリカの反応~

 1871年(明治4)の12月、アメリカ合衆国のサンフランシスコについたとき、伊藤博文は市民を前にして、
「わが国では、長い間続いた封建制度を、一発の弾丸もうたず、一滴の血も流さないで、1年余りの間に取り払ってしまった。世界のどの国゛、このようなことができただろうか」
 というような意味の演説をし、大喝采を受けたという。
 我が国でも、戦争がなかったわけではない。戊辰戦争で傷つき命を落とした人々も少なくないのである。それなのにこのような演説をしたのは、日本の立場を有利にして、条約改正を成功させたかったからだろう。
 このサンフランシスコ依頼、アメリカ政府や市民は、岩倉使節団を大歓迎した。けれども、条約改正のことになると、日本側の要求は1つも承知しようとしない。
 木戸孝允が、国内の井上馨に送った手紙によると、アメリカ側は、「日本の進歩の様子は、まことに驚くことばかりです。感服しました。ただ、天皇や政府はそのようであっても、全国の人々がすべて進歩しているというわけではないでしょう。ということになると、日本にいるアメリカ人の生命の安全が保障されるということになません。」と言い張り、結局は、「使節のかたのいうことは承知しかねます。」というばかりであった。木戸は、「つくづく困り果てました」とも記している。

 

由利公正 (1829~1909)

 由利公正は、越前福井藩出身の政治家である。横井小楠(よこいしょうなん)に学んで松平慶永に仕え、橋本左内などと共に福井藩の藩政改革などに活躍した。明治になってからは、新政府の参与として、初期財政に腕をふるった。
 1872年(明治5)には、岩倉具視の遣外施設に同行して、欧米諸国を視察している。また、1874年には、板垣退助等と共に民選議員設立の建白書を出した。

 

 

岩倉使節団 ~近代産業への驚き~

 使節団の人々に強い印象をあたえたもう一つのことは、各国における近代産業の姿であった。

例えば、イギリスを訪問して、もうもうと黒煙をあげながら活発に生産を進めている工場群をみた大久保利通は、「イギリスがなぜ冨強であるかという疑問は、このイギリスの工場群を見て、はじめてわかりました。」という意味の手紙を、西郷隆盛あてに送っている。

 そのほか、日本国内様子とくらべたとき、欧米各国の文明の進み方は、「日本はとうていかなわない」と、使節団の人々を驚かせた。

大久保は、「アメリカ、イギリス、フランスの文明は、日本よりも数段上で、日本がいくらまねをしても、まったくおよびそうもない」といっているほどである。

こうして使節団は、2年余りの後に帰国した。

しかしそのとき国内には、大問題がおこっていたのである。

 

 

岩倉使節団 ~ビスマルクの魅力~

 使節団が政治の面で特に強い印象を受けたのは、ドイツのビスマルク首相とあったとぎであったらしい。

 鉄血宰相と呼ばれたビスマルクは、国王ウィルヘルム一世とともに軍事力を強めて領土を拡大し、ついに1871年、ドイツ帝国を統一した人物である。彼は、使節団を前にして、熱弁をふるった。

「私たちの国は、まわれをイギリス・フランス・ロシアなどの大国にかこまれ、いつその力におしつぶされるかもしれない状態にあります。

しかし私たちは、大国の力を恐れませんでした。その力をはねかえすには、産業をさかんにし、軍事力を強めることがまず大切であると考え、そのために精一杯の努力をしてきました。

また押し寄せる力を押し返そうとするだけでなく、こちらから進んでわが国の力をのばしていくことにも努めてきたのです。

わかりますか。大切なのは、産業を盛んにし、軍事力を高めて、富国強兵の実をあげていくことです。どうかがんばってください。」

 このようなビスマルクの言葉は、使節団の人々を感激させた。帰国してからも、木戸・大久保・伊藤らは、ビスマルク気取りの振る舞いをすることが多かったというから、感激の度合いはかなりのものだったのだろう。

 もちろん、そのことなどが、この後の日本の政治の歩みにも大きな影響を与えたことはいうまでもない。

ビスマルク  1815-98年
 ビスマルクは、プロシア・ドイツの首相を務めた政治家である。
大地主貴族(ユンカー)の出身で、ベルリンの3月革命のときは反革命はとして活躍し、国王ウィルヘルム一世に認められてプロシアの首相になり、議会を抑えて軍備の拡張に努めた。ビスマルクが当時議会で行った演説「現在の大問題は、言論や多数決でなく鉄と血によって解決される」は、彼に鉄血宰相というあだ名をつけることとなった。
 プロシアは、ビスマルクの行った軍備拡張によって強国になり、1871年にはドイツを統一している。その後ドイツの首相となったビスマルクは、ヨーロッパの平和維持とドイツの地位の安泰のために、ベルリン会議を主宰したり、三国同盟や三帝同盟をむすんだりもした。
 彼はまた、国内では社会主義鎮圧法を制定して、当時力をつけてきた社会主義者を弾圧した。しかし、ウィルヘルム二世が即位すると、これと衝突して1890年に辞職している。

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