九州六ヶ国の守護を兼ねた大友氏
九州六ヶ国の守護を兼ねた大友氏
島津氏はもと惟宗氏といったが、平安時代末期に近衛家領島津荘の役人になってから、島津氏を名乗るようになったといわれている。鎌倉時代になると、源頼朝から薩摩・大隅・日向の三カ国の守護に任ぜられ、それ以来、この地域一帯に勢いを振るうようになった。しかも、鎌倉や京都から遠く離れた辺境にあったこともあって、中央の政争に巻き込まれることもなく、長くその地位を保ってきたのであった。
しかし島津宗家の地位は、必ずしも確立していたわけではなかった。南九州いったいに分布した一族の者たちが、長い間にそれぞれ独立して大名化していたため、宗家の威令が行き届くというわけにはいかなかったのである。この状態をあらため、宗家を中心とする強固な体制をつくろうとしたのは、1526年に家督を継いだ15代貴久であった。彼は、一族の者や有力な豪族たちと、時には和合し、時には力ずくで対決するなどして、戦国大名としての地位を確立することに努めた。
さらにその子義久の代になると、勢いを北に広げ、九州一帯をその勢力下におさめようとするまでになった。先に記した竜蔵寺氏との戦いも、この時に起こったものである。1586年、義久は豊後の大友氏も攻め、これを打ち破った。こうして、島津氏の野望はほぼ達成された。しかし、まもなく豊臣秀吉によって征服されることになる。