土佐を制した長宗我部氏
土佐を制した長宗我部氏
長宗我部氏は、鎌倉時代から土佐国(高知県)長岡郡宗我部郷の地頭であった。その長宗我部氏が、土佐一帯に勢いを振るうようになったのは、応仁の乱の際、戦乱を逃れた公家一条氏が、その荘園である幡多荘に住み着き国司を名乗るようになってからであった。長宗我部氏は、その代官となって活躍するようになるのである。
1560年、その長宗我部氏を22歳の元親が継いだ。元親はその後、10数年の間、戦いに明け暮れる日々を過ごした。土佐国の豪族たちとの攻防が続いたのである。さらに1574年には、日夜酒宴や遊興にふけり人々の信頼を失った主君の一条兼定を攻めて、豊後(大分県)に追放してもいる。こうして土佐を制した長宗我部氏元親は、四国制覇という野望の実現に力をそそぐようにもなる。
※ 一乗谷の朝倉館跡
守護代甲斐氏をおさえて越前に勢いを振るった朝倉敏景(孝景)は、1471年、山に囲まれたこの要害地に本拠を移し、朝倉文化を栄えさせた。
しかし1573年敏景の子、義景の時に、織田信長の侵攻の際に、放火もあって灰燼に帰した。