鉄砲の伝来
鉄砲の伝来
16世紀前半のこと、その大航海時代の波が、ついに日本にもおしよせてきた。1543年(1452年という説もある)、九州の南、種子島にポルトガル人が流ついたことは、特に名高い。実は、ポルトガル人がわが国へきたのは、これが初めてではなかったらしい。しかし、このポルトガル人は、我が国にはじめて鉄砲を伝え、これが戦国時代の統一に大きな影響を与えた。そのいきさつは、『鉄砲記』という本にくわしく書かれている。そのため、1543年という年が、特に名高いのである。さて、その『鉄砲記』は、このことについて、次のように記している。この年の秋、8月25日、種子島の西村の小浦に一隻の大船が流れ着いた。どこの国からきたものなのかわからない。乗客は100人余りであったが、姿形はこれまで見たこともないような人々であったし、言葉もまったく通じない。村の人々は、あやしみおそれ、さまざまに噂しあった。幸い、この船に五峰という中国人がいたので、村を治めていた織部丞が砂の上に文字を書いて筆談をしたところ、『船に乗っているのは、西南蛮の賈胡だ』ということである。「西南蛮の賈胡」とは、南方からやってきた外国人の商人という意味だと考えてよいだろう。そして、この商人こそ、アントニオ・ダ・モッタ、フランシスコ・ゼイモト、アントニオ・ペイショットなどのポルトガル人だったのである。
※当時の有識者は漢文を学んでいたので、中国人と漢文で筆談ができたのである。
背の高い、青い目の赤毛の男たち。しかも、みたこともない服装して、わけのわからない言葉を話す人たち。種子島の人々はどんなにおどろいたかしれない。しかし、もっと驚かされることが、次に待っていた。『鉄砲記』の記述によると、
「かの商人は、長さ三尺(約90センチ)余りの細長い棒のようなものを持っていた。その棒のようなものには、穴がまっすぐ通じていて、とても重い。穴の底の方には、もう一つ穴があり、これは火をつけるためのものである。さて、これを使うときには、まず、見たこともないような妙薬と小さな鉛の玉を穴に入れる。そして、的に向かって構え、別の穴から火をつけると、飛び出した鉛の玉は、すべて的に当たってしまう。ただ、火をつけたときのおそろしさは、稲妻がかがやき、雷がとどろくようで、たとえようもないほどだ」
いうまでもなく、これが鉄砲だったのである。飛び道具といえば、弓矢くらいしか知らなかった当時の人々は、はじめてこの鉄砲を見て、どんなに驚いたかしれない。島の領主の種子島時尭は、「いくらお金をだしてもよいから・・・」といって、この鉄砲を二つ求め、家法とすることにした。また、家臣の篠川小四郎に命じて、“妙薬”のつくり方を習わせたという。これは、織田信長が生まれてから、十年余りたったときのことであった。この後、鉄砲は、わずかな間に国内に広まっていった。特に、紀州(和歌山県)の根来、和泉(大阪府)の堺、近江(滋賀県)の国友などは、鉄砲の産地として有名であった。
※ 種子島時尭は、戦国時代の島津氏の家臣で種子島氏の第14代領主(島主)、1528年生まれ、1579年10月2日51歳で死亡。
天文12年、ポルトガル商人が乗っていた明船が種子島に漂着した。好奇心旺盛な数え歳16歳の時尭は、この時鉄砲の威力を見て即座に2000両の大金を支払い二挺を購入。そして、鍛冶職人八板金兵衛に銘じて、鉄砲を分解させて調べさせ、鉄砲製造に成功した(もう一丁は島津氏を通して、将軍足利義晴に献上)。これに因んで、鉄砲は種子島銃と呼ばれ、戦国時代に大きな影響を及ぼすことになる。