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歴史ネタ帖

川中島の戦い

川中島の戦い

武田信玄と上杉謙信とは、川中島で五回にわたって戦っている。この川中島のある北信濃・善光寺平の地は、両者のいずれもが重視していたところであった。越後の上杉謙信にしてみれば、ここは本拠地春日山城から、60キロほどしか離れいてない。いわば、信濃からの侵入を防ぐ第一線ともいえる土地なのである。

一方、武田信玄にとってここを失うことは、父信虎以来、苦心を重ね多くの犠牲を払ってようやく手中にした信濃支配を、くつがえされかねないことになる。それに、本拠である甲州の安全も保てなくなるかもしれない。

こうして、1553(天文22)、1555年(弘治元年)、1557年(弘治3年)、1564年(永禄7)というように、五度にわたって戦いが繰り返されることになったのである。

そしてこのうち第四回目の戦いが、上杉謙信・武田信玄の一騎打ちで名高い「川中島の決戦」であった。

この8月、上杉謙信は、1万3千の兵を動員し、自らはそのうちの8千を率いて、武田信玄方の支城・海津城を見下ろす位置にある妻女山(さいじょさん)に陣を定めた。

 

これを聞いた武田信玄も、即座に動いた。

2万の兵を率いて海津城に向かったのである。その武田信玄は、得意の「啄木鳥の戦法」を用いて、上杉謙信の軍を一挙に葬ろうとした。

上杉謙信が陣する妻女山の後方に、1万2千の兵を配し、9月10日の明け方にその陣を襲わせる。あわてた上杉謙信方が陣を出て移動したところを、待ち構えた武田信玄本陣の軍が襲かかる、という戦法なのである。

その企みをとっくに見抜いていた謙信は、9日夜に、ひそかに陣をまとめさせると、400mほど先の川中島まで進んで、夜の闇の中に潜ませた。

こうして10日早朝に、上杉謙信の軍が武田信玄の軍を襲い、戦いの火ぶたが切って落とされた。形勢は、はじめ不意をつかれた武田信玄方が不利であった。上杉謙信は月毛の馬に乗って、単身武田信玄の本陣に斬り込み、手にした軍配で防ぐ武田信玄に、2か所の傷を負わせたという。しかし、やがて妻女山の後方に伏せた別動隊がかけつけると、今度は武田信玄方の旗色がよくなった。そして、戦いの不利をさとった上杉謙信が、兵をまとめて越後に引き上げるという事態になり、第4回目の戦いは終わったのである。時に武田信玄41歳、上杉謙信は32歳であった。

 

 

信玄の誕生

北条早雲が88歳でしんでから2年後(松浪庄五郎=斎藤道三が国盗りの志をいだいて美濃国へはいったころ)、甲斐国(山梨県)石水寺城(せきすいじじょう)で一人の男の子が生まれた。

このとき、産屋の上には一筋の白雲がたなびき、まるで長い白旗(源氏は白旗)が風にはためいているようであったという。

また、その白雲が消えたとき、2羽の白鷹が3日間、産屋の屋根にとまっていたともいわれ、「末頼もしい若君の誕生よ」と評判になった。

また、この若者はめったに泣かなかった。

ところがいざ泣き出すと、その泣き声はあたり一帯に響きわたり、人々を驚かすほどであったともいう。

こうして、幼いころからうわさの的になり、人々の期待を集めながら成長していったこの若者こそ、のちに、戦国一の英雄と評判され、全国に名を知られるようになった武田信玄その人だったのである。

この武田信玄は、北条早雲や斎藤道三のように、身分も地位もはっきりしていなかったような人ではない。

彼の家は、代々甲斐国の守護をつとめ、この国一帯に名を知られた名門であった。

彼は16歳で元服したとき、「晴信(はるのぶ)」と名乗ったが、これは将軍足利義晴の名を一字もらったものであり、将軍家とのつきあいの深さをあらわしているものだった。

 

 

風林火山の旗印

武田信玄は、成長ののち、北に向かっては信濃国(長野県)に勢いを広げ、南に進んでは駿河(静岡県)の今川氏と戦うなど、勇猛の名を天下にとどろかすようになった。

その信玄が率いた軍隊というと、すぐに思いだされるのは、「風林火山」の旗印である。この旗印をいつごろから使われるようになったかははっきりしないが、ここに書かれた「疾(はや)きこと風のごとく、徐(しず)かなること林のごとし、侵掠(おかす)こと火のごとく、動かざるこ山のごとし」という言葉は、果断にことに当たりながらも、しかも、冷静さを失わなかった信玄の戦いぶりをよく示している。

信玄の軍は、彼の指図をうけながら、ときに疾風のごとく移動しては、燃え上がる火のごとく遅いかかかり、ときには林のように静かに、また山のようにじっと動かずに時のくるのを待ったのである。

その戦いじょうずの信玄が、実践に出て戦いの経験を重ねていったのは、16歳で元服したころからであった。

このころ、父武田信虎は、甲斐の国内を統一するのに忙しかった。

武田氏は甲斐国の守護だったのだが、国内では一族の武士までが武田氏にそむいて戦いあい、南からは駿河の今川氏が攻め入ってくるなど、きびしい情勢にあった。

そこで信虎は、武力をもって国内をたいらげ、今川氏の侵入をおさえるなど、大活躍していたのである。

さらに国内を平定した信虎は、信濃・駿河へ勢いをひろげようともしていた。

信玄は、この父に従って、各地で戦い、一つ一つ戦いのしかたを身につけていったのであった。

ところが、信玄が21歳になったとき、信玄自身が父信虎を駿河に追放するという事件が起こった。

なぜこのようなことになったのかはっきりしないが、信虎追放を聞いた甲斐の人々は、みな「よかった。これで助かった」と喜んだといわれている。

おそらく戦いに勝つことだけを考えてきびしい政治をしたため、信虎は、領地の人々からひどく憎まれていたのだろう。これを見た信玄は「このままでは、甲斐の国は再び乱れてしまう」と考え、父信虎を追放したのではないだろう。

父武田信虎という人は、戦国時代の武将としては、勇猛ですぐれた人であったが、残忍さも持ち合わせていた。

一種の酒乱であったのだろう、酒を飲むと人が変わったように残酷なことをしたという。

信玄が父を追放した陰には、信玄に臣従する多くの武士たちの同意があったに違いない。

そうでなければ、この追放劇が平穏に行われたはずがない。

当時駿河の今川氏には、信虎の娘が嫁いでいた。信玄の姉である。今川義元は信玄にとって義理の兄弟だった。

この娘を訪ねた信虎は、そのまま駿河に留め置かれてしまう。そのとき信虎は48歳であった。

信玄は、信虎の生活費を今川氏に送り届けていたらしい。あらかじめ、信玄と義元が相談して信虎の処遇について了解し合っていたのかもしれない。

 

 

人は城、人は石垣

その信玄は、日頃、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と諭していたという。

「われわれにとって特に大切なのは、心から協力して生命を捨ててまで働いてくれようとする人々なのである。たとえ高い石垣や深く広い堀に囲まれた城がなくても、その人々がいるかぎり、彼らが城となり石垣や堀の役割をはたして、この国を守ってくれるだろう。だからこそ、人々に情けをかけて心を通じ合い、味方を増やしていくことが大切だし、相手に憎しみを感じさせ敵を多くするようなことはしてはならない。」という意味である。

この言葉を信玄が本当に残したものかどうかも、はっきりしていない。

しかし信玄が、「自分にとって大切なのは、城でも石垣でも堀でもない。領地の人々を大切にし、彼らと心を通じ合うようにすることこそ、自分がもっとも心がけていることなのだ」と考えていたことは、たしかであった。

事実、彼がその居城とした躑躅ケ崎館(つつじがけさやかた)は、他の戦国大名の城館に比べて、ごく簡素で小さなものであった。

このことについて『甲陽軍鑑』は、「信玄公御一代の内、甲州四郡の内に他の城郭を構えず、堀一重の御館に御座候」と記している。

これは、農民から税を取り立てることだけに力を入れていた、それまでの守護や荘園領主などの考えとは大きく違っている。

税を取り立てることだけを考えて、領地の人々を苦しめるのでは、一揆などを起こさせるもとをつくるだけである。

そうではなくて、領主は領地の人々の生活のことを考えながら政治をする、そして領主と領地の人々が一体になって国を守り、国を発展させていくことが大切なのだ、というのが信玄の基本的な考え方であった。

この考え方は、信玄だけでなく、多かれ少なかれ、戦国の世の大名たちに共通するものだった。

武田信玄は、上杉朝興の娘や、三条公頼の娘と結婚したのをはじめ、そのほかにも何人かの妻をもっていた。

このうち上杉朝興は、そのころ相模の戦国大名北条氏綱と戦っていたので、信玄に娘を嫁がせることで武田氏と手を結び、共同で北条氏に当たろうとしたのである。

また、三条公頼の娘との結婚は、今川義元の勧めによるものといわれている。

信玄は、この今川氏の好意を受け入れることによって、今川氏との友好関係を深めようとしたのだろう。

そのほか、信玄のこどもも、周囲の大名と縁組をしているが、いずれも、それらの大名と手を結び、その力を利用しようとするものであった。

これを政略結婚というが、このようなことは、戦国時代ではごく当たり前のことだったのである。

 

京都を目指して

このころ信玄の最大の望みは、いち早く京都にのぼり、天皇や足利将軍をいただいて天下に号令する身分になりたい、ということであった。これは、信玄だけのことではない。多くの戦国大名が抱いていた望みでもあった。1570(元亀元)年、このとき50歳になった信玄は、長年の望みを果たすために、大軍を率いてまず東海道に進んだ。このころ、北方の好敵手上杉謙信との戦いは一段落していた。しかし、京都への道を阻む者としては、織田信長・徳川家康らの軍がいる。

信玄は、越前(福井県)の朝倉義景、近江(滋賀県)の浅井長政と手を結んで信長らに圧力をかけさせるとともに、自分は2万の本隊を率いて、東海道を西へ向かった。そこでは当然、徳川・織田の軍との対決が行われることになる。こうして起こったのが、三方ケ原の戦いである。そしてこの戦いは、武田軍の大勝利に終わった。

徳川・織田の連合軍一万余りは、勇猛を誇る武田の騎馬隊のために、さんざんに蹴散らされてしまったのである。徳川家康自身も、命からがら浜松の城に逃げ込む有様であったという。大勝利を得た武田軍は、浜松城の家康には目もくれずに進撃し、信長の本拠である尾張・美濃を目指した。ここを手に入れれば、京都は目の前である。長年の望みを果たすこともできる。しかしそのいま一歩のところで、信玄は挫折した。

 

 

信玄の身体をむしばんできた病魔が、ここにきて頭をもたげたのである。そして、病床に伏した指揮官をかかえた大軍は、むなしく甲州に引き揚げなければならなかった。やがて信玄は、死のときを迎える。

彼は、「風林火山の旗やのぼりを京に挙げられなかったのは、何よりの心残りだ。それに、もし信玄の死没が明らかになれば、周囲の敵は、時節を窺って必ずや蜂起するに違いない」と言い残し、さらに「3・4年の間は、その死を隠せ」とも指図して、53歳の生涯を閉じたという。

乱世の雄・信玄は、死に臨んでもなお無念の思いをつのらせていたのである。この信玄の死について、三方ケ原で手痛い大敗をした徳川家康は、「憎い敵ではあるが、毒殺したいとは思わぬ。正々堂々と戦いたい相手だった」と語ったという。また、食事中であった上杉謙信は思わず箸を落とし、「ああ、好敵手を失った」と言って涙を流したと伝えられている。

その謙信も信玄に遅れること5年、49歳で病のために死んだ。その2年前、能登国(石川県)七尾城を攻め落とした謙信は、

霜は軍営に満ちて、秋気清し

数行の過雁 月三更

越山併せ得たり 家郷の遠征を懐うは

という有名な詩を残したと伝えられている。

 

 

 

上杉謙信と「毘」の旗印

武田信玄の最大の好敵手が、越後(新潟県)の上杉謙信(旧姓長尾氏)であった。越後国は、もともと山内上杉氏が守護に任ぜられていたところである。謙信の父長尾為影は、守護代としてここを治めていたのだが、やがて為影は、主家上杉氏の勢いが衰えるとともに、越後国一帯に勢いを広げた。つまり、下克上によってこの国を支配する戦国大名になったのである。

さらに謙信の代になると、北条氏康との戦いに敗れて謙信を頼った山内上杉氏から「上杉」の姓を譲られて、上杉謙信を名乗るようになった。その謙信が本拠にしたのは、春日山城であった。彼はここを中心に「毘」の旗印を揚げながら、越後国をはじめ北陸地方一帯に勢いを広げた。「毘」の旗印は、謙信の性格や心情をよくわらわすものでもあった。まず「毘」は、軍神として崇められていた毘沙門天を表す文字である。彼自身は、「自分は毘沙門天の化身」と信じ込んでいたらしい。春日山城には、毘沙門堂がつくられていたが、彼は戦いの前になると必ずこの堂にこもり、作戦を練るとともに必勝を祈ったという。

このとこからも、謙信の信仰の強さがうかがわれるのだが、そのような信仰心は、幼いころに林泉寺(りんせんじ 禅寺・長尾家の菩提寺)に預けられ、名僧といわれた天室光育の教えをうけたことが、大きく影響しているのではないかと言われている。

彼は一生の間女性を遠ざけて独身で通し、肉食を避け、精進に励んだというが、これも強い信仰心の表れなのだろう。信仰心といえば、謙信が、敵対する武田信玄の領地に塩を送ったという話も、その表れなのかもしれない。

そのころ、山に囲まれ、海をもたない甲斐国の人々は、毎日の生活に必要な塩を、おもに東海方面から運び入れていた。しかし、信玄とい戦っていた北条氏・今川氏がこの塩をおさえてしまったために、甲斐の人々は、たちまち困ってしまった。ところがここに、以外なことが起こった。やはり戦い相手の上杉謙信が、日本海沿岸でできた塩を送ってきてくれたのである。「自分は、信玄とは戦っているけれども、甲斐の人々を敵にしているのではない」というのが謙信の言い分であった。この話は、戦国時代の美談としていまに伝えられている。しかし、本当にあったことなのかどうかは、はっきりしていない。

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