カテゴリー:近代
西郷隆盛の考え 西郷は、士族の行方を心から心配していた一人であった。と同時に西郷は、新しい政治の経緯に苦々しい思いをさせられてもいた。 彼に進言した鳥尾小弥太(もと長州藩 士・陸軍少将)は、その中で、「今や文明開化と称し米を父とし…
文明開化と過激 ~伝統文化をこわした人たち~ 旧弊のひとたちとは反対に、「世の中は新しくなったんだ」「古いものは、もういらないんだ」と、古いものをすべて打ちこわしてしまおうとする人々もいた。 1870年(明治3)、熊…
高まる士族の不満 ~神風連の乱~旧肥後藩であった熊本県には大きくわけて3つの党派があった。1つは、学校党とよばれた藩校時習館の出身者、旧藩の上士を中心とした士族たちで、これが最も多かった。1つは、洋学党で、開明的な人…
明六社の人々 文明開化を進めようとしたのは、政府だけではなかった。民間の人々の中にも、「これからの日本は、文明開化をめざさなければならない。それは衣食住などを西洋風にまねるだけではない。まず大切なのは封建…
士族と官吏 1880年(明治13)の記録によると、中央・地方の全官吏の74%は士族であった。官吏の給料はきわめて高く、1878年には最下級の官吏でも月給12円であったという。 ところが、官吏になれたのは、全士族の1割く…
人民告諭 告諭とは「諭し教える」という意味である。明治政府は、人民告諭を題して、天皇のありがたさ、智異などを国民に知らせるように努めた。というのも当時の国民の多くは、天皇のことなど知ってはいなかったのである。将軍や大名…
海を渡った遣米使節 万延元年(1860)1月、つまり、安政の大獄で吉田松陰や橋本左内が処刑されたすぐ後のこと、アメリカの軍艦ポーハタン号が江戸湾を出発し、アメリカへ向かった。 この…