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歴史ネタ帖

文明開化の世の中

 

明六社の人々

 文明開化を進めようとしたのは、政府だけではなかった。民間の人々の中にも、「これからの日本は、文明開化をめざさなければならない。それは衣食住などを西洋風にまねるだけではない。まず大切なのは封建的な考えやしきたりを改めるとともに、人民一人一人の自主独立の精神を高めることだ。またこのことをもとに、政府と人民が一致して国の独立をはかっていくことが大切だ」と主張する人々が少なくなかった。

 1873年(明治6)7月には、森有札(もり ありのり)らを中心にして、これらの人々がまとまり、明六社(明治6年につくったという意味)という団体をつくった。これに参加したのは、福沢諭吉・西周(にし あまね)津田真道・加藤弘之・中村正直など、そのころ世の人々に広くしられた知識人たちであった。彼らは『明六雑誌』と名付けた雑誌を発行し、明六社の考えを広めるとともに、それぞれも独自に本を書いたりして、世の人々に訴えた。その一つが福沢諭吉が書いた『学問のスヽメ』である。

 この『学文のスヽメ』は、「天ハ人ノ上ニ人ヲツクラズ、人ノ下ニ人ヲツクラズトイヘリ」という文で始まるものであるが、1872年(明治5)から次々に刊行され、1880年(明治13)年ごろまでには、発行部数80万部余りになったという。このことは人々が争ってこの本を読んだと、それだけになどを福沢の考えが当時の人々に広くしみわたったことをよく示しているものといえる。

 このへか中村正直(なかむら なおまさ)は、『西国立志編 さいごくりっしへん』『自由之理』を書いて、当時の青年たちの血をおどらせ、その心構えを改めさせた。『西洋立志編』は、イギリスのサミエル・スマイルズが古今東西の有名人数百人の立志伝をまとめたものの翻訳である。

 

電信の開通

 1869年(明治2)2月、東京-横浜間に電信が開通した。当時横浜は外国との交際の中心であったので、東京とは少しでも速い情報の交換が必要とされたからである。これ以後、政府は軍用の必要もあって工事を急いだため、1874(明治7)には東京から、北は青森まで、西は長崎まで、電信が通じるようになった。
 東京-横浜間に電信が開通したとき、人々は電信のことを「テレガラフ」とか「針金わたり」などと呼んだ。「針金わたり」というのは、電信用紙が実際に電線を伝わっていくものと思い違いしてつけられた名前であった。なからは、電線に弁当を結び付けて、送ってもらおうとした者もあったといいう。
 なお、1890年(明治23)12月には、東京-横浜間に電話が開通し、民間の人も使えるようになっている。

 ※戊辰戦争が終了して間もない明治2年に、電信が開通していたって、すごくないですか。
  まして、電話が明治23年に、民間人も使えるようになっていたって、すごくない。
  このように、世の中が変化して、世の中の人々はついていくの大変だってでしょね。

 

文明開化の顔・銀座

 明治の初め、東京の銀座には、人々の目を驚かすような新しい街が出現した。イギリス人技師のウォートロス指導のもとに、1873年(明治6)から7年をかけ、当時の国家予算の10%余をつぎ込んでつくった街である。
 実は、1872年の大火で、銀座・京橋一帯が焼けたのを機会に、政府と東京府は、京橋から新橋までの銀座八丁目の間に外国人に見せても恥ずかしくないような街をつくろうと計画した。それによって、日本は欧米と同じような文明国であることを示そうとしたのである。こうしてできたのが、新しい銀座通りであった。
 幅12メートルの道の両側には、10メートルを超えるレンガ造りの建物が1キロほども立ち並んでいた。桜・松などの並木は、レンガが敷き詰められた道路や周囲の建物に生えて美しい。
 その下を、馬車や人力車がいきよいよく通りすぎていく。手にはステッキを持った洋服姿の人も、パラソルをさし、裾のながい服をきた貴婦人も、2メートルほどの警棒を持ち、するどい目を四方にくばりながら、過ぎていく警官もいる。
 わずか数年前、ここは雨が降ればぬかるみになり、風が吹けば砂埃が舞い上がるようなところであった。その道を駕籠が走り抜け、刀を差した武士や天秤棒をかついだ行商人がゆったりと歩いていた。
 それと比べれば、たいへんなかわりようである。しかもここには、それまで見たこともないような洋風のものがあふれていた。
 人々は、このような変化を文明開化と呼んだ。この言葉は、福沢諭吉によって作られたものだといわれているが、その文明開化も、新政府の手によって強力に進められたものであつた。

 

散髪になるべき道理

 政府の役人であった加藤祐一は、国民に文明開化を勧めるために書いた「散髪になるべき道理」という題の中で、ざんぎりがよいわけを、つぎのようにいった。
 「元来自然に生えてくる毛を、そり落としてしまうということは、よいことではない。もともと身体の中にある目に見えないほどの細かい筋や骨であっても、それぞれちゃんとしたやくわりがあって、それがあるために手足が動いているのだ。それと同じように、毛が生えてくるには、毛がなくてはならない理由があるからなのであるね。それが自分のわがままで毛をそり落としてしまったのでは、毛がもってる役割が果たせなくなるので、身体のためになるはずがない。」

 なるほど、毛の役割を考えて「ザンギリ頭」になるとこの正当性を説明しているところは、納得させられますね。脱毛を考えていたけど、迷う。
毛は、虫除けになり、ざわざわ感を感知する、皮膚の防御、日焼け予防、水に溺れそうになった時の浮力になる、産毛の魅力、でも鼻毛はダメ、青春時代のひげは?、老人のひげは?
たかが毛、されど毛、毛の話がながくなりました。

 

「ピキチル」とは「ちょんまげ頭」

政府の役人、特に外国の様子をみてきた人たちは、西洋人から「ピキチル」などとよばれたちょんまげ頭が恥ずかしくてならなかった。ピキチルとは、豚のしっぽといういなのである。そこで、「こんなちょんまげ頭をいつまでも残しておいてはいけない。それでは、西洋人にばかにされるぎかりだし、彼らと対等につきあうこともできない」という考えが高まった。
 こうして1871年(明治4)、ちょんまげを切って西洋風のざんぎり頭になれという政府の命令が出されることになった。
 これを受けた長崎県では、「汽車や汽船が発明された、今日のように世の中がさかんになったのも、みみな頭の働きである。頭をそって粗末にするのは、たいへんよくないことだ。男子たるものは、早く髪をのばして、頭を大切にせよ」という命令をだしたという。
 また、岡山県や福島県のように、「ちょんまげの者からは、50銭の罰金をとるぞ」とおどかしたところもあった。
 とはいうものの、長年の習慣は、「お上」からいわれただけで簡単にあらためられるものでもない。

1873年(明治10)ごろの東京の人々の髪形を報じた新聞には、「府下四民あわせて、七分は半髪、三分はざんきりなり」と記されている。

 全国的にみれば、農村でざんぎりが増えたのは1877年(明治10)ごろであり、ほとんどの人がざんぎり頭になったのは、さらに10年余り経った1889年(明治22)ごろのことであったらしい。

 

学校と教育

「早く西欧の国々においつきたい。外国人にばかにされないような国をつくりあげたい」という富国強兵への願いは、学校教育の面にも向けられた。

 1872年(明治5)8月、「全国を八つの大学区に分け、区ごとに一つの大学をおくこと、また一大学区に三十二の中学区、一中学区に二百の小学区をおき、それぞれに中学校や小学校をつくること」を中心にした「学制」が出されたこと、さらに「学校をつくること、学校で学ぶことがなぜ必要なのか」を教えるための「学事奨励に関する仰出(おおせいだ)され書(しょ)」がだされたことは、そのもっともよい表れである。
 これは、全国に八つの大学、256の中学、53760の小学校をつくるという、まことに壮大な計画であり、しかも国民にすべて教育をうけさせることにするという「義務教育」をめざしたものであった。もちろん、それが「富国強兵をすすめるためには、すぐれた人材がたくさんつくらなければならない」という考えをもとにしたものであることはいうまでもない。

 

大学とその役割
 
 我が国ではじめて国立の総合大学がつくられたのは、1877年(明治10)4月のことである。つまり法学部・理学部・文学部・医学部の4つの学部をもつ東京帝国大学がそれだが、この後、国立の大学は札幌・仙台・京都・福岡など各地につくられていった。

 ただこれらの国立大学は、学問の研究を進め、すぐれた人材を養成するということだけを目的にしたものではない。むしろ、そのすぐれた人材を国家のためにやくだてるということが、大きな目的の一つになっていた。したがつて、大学を出た者の中には、政府の役人になる者が少なくなかった。

 福沢諭吉は、開成学校(のちの東京大学)の生徒に向かって演説し、「君たちは、国家の秘蔵っ子だ」といったが、これも国のために役立つ人材を育てようとした政府の考えを示したものだったといえる。

 特に国立の大学の卒業生の中から選ばれて外国に留学した者は、帰国後は政府の高官となって、政治を整え進めるために力を尽くすのが普通であった。ただ、このころ、外国へ留学できるのは、華族や大金持ちの子供など、ほんのわずかな人々を望シテ、ほとんどが国立大学の出身者から選ばれ、国の費用で派遣された者であった。だから政府は、外国留学生のほとんどを手中にし、政府の実力をたかめるために利用することができたともいえる。

 

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