桶狭間の戦い
桶狭間の戦い
この年、かねて京都へのぼって天下に号令しようとしていた駿河(静岡県)の今川義元は、2万5000の大軍を率いて西へ西へと進んだ。そして5月19日には、鷲頭・丸根などの織田方の砦をおとし、田楽桶狭間(桶狭間の山の中間)に陣をしき、やがて本城の那古野に迫ろうとする勢いであった。これを迎えうつ織田の軍は2千余りしかない。普通なら、今川義元の前に進み出て家来になり、織田の安泰を願うか、堅固な城にたてこもって戦うかするところである。しかし、信長はどちらの道もとらなかった。
清州城で酒を飲んでいた信長は、「人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢まぼろしのごとくなり。一度生をえてほろびぬものあるべきか」(人間の生命は、50年余り。まるで夢まぼろしのようなものでしかない。それに一度生まれた者は、必ず死ぬのが運命なのだ、というような意味)とうたいながら舞を終ると、たちまち先頭に立って馬にむちを入れた。
今川の陣までは、清州から約30キロ。ここを一気にかけぬけて、今川の陣を奇襲しようというのである。時に、27歳であった。もちろん、部下の武士たちが隊伍をととのえて信長に従ったわけではない。急な出陣ということで、武士たちは信長のあとを追うのが精一杯であった。それでも、信長が桶狭間に近い熱田神宮についたころには、2千人余りの武士が、信長のまわりを取り巻くようになっていたという。二千の軍で二万五千の大軍にあたるというこのくわだては、明らかに無謀なものである。しかし信長にとって、無謀であるかどうかなどということは問題ではなかった。
「人数が少なければ必ずまける、というものではない。そう思いこんでしまうから負け戦になるのだ。わしは、そんなことをしない。命を懸けて、自分の運命を自分で切り開くのだ」というのが、信長の気持ちだったのだろう。
幸運にも、そのような信長の決意に、天も味方した。
天候が急に変わり、雷鳴とともに豪雨が襲ってきたのである。その豪雨の中を二千の軍が今川の陣に突入していった。勝ち戦に酔い、安心しきっていた今川陣は、総崩れになった。そして今川義元も、信長の家来毛利新助の槍にかかって死んだ。こうして桶狭間の戦いは、信長の決断と幸運に支えられて勝利に終わった。さらに今川義元を打った信長は、駿河・遠江(静岡県)、三河(愛知県)の地にも勢いを伸ばして、急速に力を強めた。
※ 桶狭間の戦い
先鋒・松平元康(徳川家康)の軍が丸根砦を、朝比奈野泰能が鷲津砦を陥落させたという知らせを受けて喜んだ今川義元は、大高城に向かう途中、田楽狭間で昼食の休憩をとった。それより先、今川出陣の報を受けた信長は、午前2時には全軍出撃を命令。終結地点の熱田神宮から敵の目をくらましながら東へ進み、午後2時ころ、豪雨の中を今川の本陣に攻め込んだ。
もう一つ信長にとって重大な出来事があった。それは、この戦いをきっかけにして、三河国岡崎の城主徳川家康と手を結んだことである。ときに信長29歳、家康21歳であった。こののち信長は、周囲の大名としばしば戦いをまじえることになるが、この徳川家康との同盟が、たいへん力になった。
なお、桶狭間の戦いのときのこととして、「今川軍の動きは、すべて信長のところに伝わっていたのに、今川軍は織田方の動きをほとんど知らなかったらしい」という話が伝えられている。だからこそ、奇襲が成功したというのである。では、今川方の動きを織田方にしらせたのはだれなのか。それはたぶん、織田領の農民たちだったのだろう。今川軍は、織田領に攻めこんできたのだから、当然のことである。一方、今川軍が織田方の様子をしらなかったというのは、織田領の農民で今川軍に情報を流すものがいなかったことを示している。これは、信長が農民のことを考えて政治をし、農民は信長を慕っていたということをあらわすものともいえる。
このころのことして、
「昔の尾張国は盗人が多く、夜はもちろんのこと、昼も安心して歩けないほどであった。しかし、信長が治めるようになってからは、夜でも戸をあけはなして寝られるようになったし、荷物を置いたまま昼寝をしている商人も見かけるようになった」という話が伝えられているが、これも農民や商人が、信長を信頼していたことを示すものかもしれない。
桶狭間の戦いの時の家康
桶狭間の戦いのとき、徳川家康は19歳であった。幼いときから家康は人質の生活が続いていた。はじめて今川氏に人質としておくられるところを、織田方に奪い取られ、しばらく那古野城で暮らしたこともあった。捕虜となった信長の兄と交換で三河戻ったのもつかの間、今川氏への人質として、駿府におくられた。父の松平広忠が死んだ後も、三河に変えることが許されず、今川義元の手元で青年武将として成長したのである。家康は、義元の上洛にあたっては、三河衆を率いて今川軍の先鋒として尾張に攻めこんでいた。本隊とは別に、先鋒として鷲津砦に攻めかけていた家康は、5月19日にはこれを落とし、織田方の佐久間大学を打ち取る手柄を立てた。
しかし、桶狭間で義元が打たれて敗走すると、家康は駿府には戻らず、生まれ故郷の岡崎城に入った。これ以後、家康は駿府の今川氏に臣従することなく、戦国大名として独り立ちするようになる。そして、織田信長と同盟を結ぶことで、歴史の表舞台に登場してくるのである。