開国への道
開国への道
日米和親条約
プチャーチンはさして問題を残さずに長崎をさったとはいえ、ベリーの強硬な態度と再度の来日のは、幕府当
事者に思い枷となって残っていた。
幕府や諸大名の対応
時の老中阿部正弘は、ペリーの国書を諸大名に示すとともに、「このことについて、自由に意見を申し述べるように」と命じた。
このようなこと、つまり政治について、諸大名の意見を聞くということは、これまでほとんどされたことがなかった。幕府は、天下の政治をまかされたものとして、朝廷にも諸だいみょうにもそうだんすることなく、思うままに決まりをつくり、命令を出すとうのが普通だったのである。それなのに、“意見を申し述べよ”と命じたのは、幕府自身に、この事件をおさめる自信がなかっただけでなく、「このような大事件の解決は、国全体の者が真剣に考えるべきことだ」という考えがあったからだろう。
しかし、諸だいみょうかりへんじは、決しておもわしいものではなかった。
「アメリカの要求は、古くからのしきたり(鎖国)にそむくものだから、許してはいけない」といいながらも、
「だから戦う覚悟のうえで、はっきり断れ」という意見は少ない。
「今のままでは、アメリカに且つ見込みはないし、たいへんな犠牲も覚悟しなければならない。しかたがない
から、一応は国交を許すことにしたらどうだろう」というのが、多くの大名の意見だったのである。
一方、朝廷では、その中心に立つ孝明天皇が、強い攘夷論(外国船を打ち払えという考え)の持ち主であっ。そ
の天皇を取り巻く公卿の中には、「外国とのつきあいも、やむをえない」という意見の者もいたのだが、、、。
この後、幕府は、そのような朝廷との話し合いにも力を尽くさなければならないことになる。