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歴史ネタ帖

猪苗代城の妖怪・亀姫

猪苗代城の妖怪

 加藤左馬助嘉明、同式部少輔明成御父子の節、猪苗代御城代堀部主膳相つとむ。禄壱万石。寛永十七年十二月、主膳只壱人座敷に有ける折、いつくともなく禿来りて、「汝久敷此城に有といへ共、今に此城主に御目見をなさす。いそぎ身をきよめ上下を着し来るへし。今日御城御礼請させらるへしとの上意也。敬て御目見へ可仕」と云。主膳聞て禿を白眼、「此城主は主人明成、当城代は主膳也。此外に城主あるへき様なし。にくきやつめ」と禿をしかる。禿笑て、「姫路のおさかべ姫と猪苗代の亀姫をしらさるや。汝今展運すてに尽果て、又天運のあらたまる時を知らす。猥に過言をは咄出す、汝か命数もすでに尽たり」と云て消失たり。

 明る春正月元朝、主膳諸氏の拝礼を請んとて、上下を着し広間へ出ければ、広間の上段に新敷棺桶をそなへ、其側に葬礼の具揃置たり。又其夕べいつく共知れす、大勢のけはいにて餅をつく音せり。正月十八にち、主膳雪隠より煩付、廿日の暁死たり。

 其年の夏、柴崎又左衛門といふ者、三本杉の清水の側にて、七尺斗なり真黒の大入道水をくむを見て刀を抜飛懸り切付しに、大入道忽行衛なく成たり。久しく程過て、八ケ森に大きなる古むじなの死骸のくされて有りしを猪苗代木地小屋のもの見付たり。夫より絶えて何のあやしき事なかりしといへり。

【現代語訳】

猪苗代の妖怪・亀姫

 亀姫(かめひめ)は、ふく福島県猪苗代町の猪苗代城(亀ヶ城)に住みついていたとされる妖怪です。江戸時代中期の奇談集『老媼茶話』の三巻「猪苗代の城化物」に名が見られます。

『老媼茶話』にあります亀姫の奇談は次の通リです。

 一六四〇(寛永一七)年のことでした。当時の猪苗代城の城主は会津藩の第二代藩主・加藤明成で、堀部主膳という者が猪苗代城の城代を務めていた。

 一二月のある日、堀部主膳が一人でいるところへ見知らぬ禿頭の子供が現れ「お前はまだ城主に挨拶をしていない。今日は城主が会ってやるとのことだから、急いで準備をしろ」と言った。

主膳は「この城の主は我が主人・加藤明成、城代はこの主膳であり、他に城主などいない」と言い返して睨みつけた。すると子供は笑い「姫路のおさかべ姫と猪苗代の亀姫を知らないのか。お前の命運はすでに尽きた」と言い残して姿を消した。

年が明けて正月の朝、主膳が城の広間へ行くと、自分の席には棺桶や葬儀の道具などが置かれていた。家来たちに尋ねても、何者の仕業かはわからなかった。その日の夕方には、どこからか大勢で餅をつくような怪音が響くなどの怪異があった。その正月の一八日、主膳は便所で倒れ、二日後に息を引き取ったという。

 同年の夏のことである。七尺(約二・一メートル)もの大入道が田のそばで水を汲んでいた。それを見た城の武士が一刀のもとに斬り捨てると、それは大きな狢だった。以来、城で怪異が起ることはなかったという。

 「姫路のおさかべ姫」とは姫路城の天守に住んでいたとされる妖姫・長壁姫のことであり、亀姫は長壁姫の妹とされている。この話をもとにした泉鏡花の戯曲『天守物語』でも、亀姫は主人公・富姫(長壁姫)の妹という設定で、姫路城の姉のもとへ遊びに行く際、男の生首を土産に持参する描写がみられます。

 

 

 

《猪苗代城の妖怪詳細解説》

 加藤左馬助嘉明、同式部少輔明成御父子の節、猪苗代御城代堀部主膳相つとむ。禄壱万石。寛永十七年十二月、主膳只壱人座敷に有ける折、いつくともなく禿来りて、「汝久敷此城に有といへ共、今に此城主に御目見をなさす。いそぎ身をきよめ上下を着し来るへし。今日御城御礼請させらるへしとの上意也。敬て御目見へ可仕」と云主膳聞て禿を白眼、「此城主は主人明成、当城代は主膳也。此外に城主あるへき様なし。にくきやつめ」と禿をしかる。禿笑て、「姫路のおさかべ姫と猪苗代の亀姫をしらさるや。汝今展運すてに尽果て、又天運のあらたまる時を知らす。猥に過言をは咄出す、汝か命数もすでに尽たり」と云て消失たり。

 明る春正月元朝、主膳諸氏の拝礼を請んとて、上下を着し広間へ出ければ、広間の上段に新敷棺桶をそなへ、其側に葬礼の具揃置たり。又其夕べいつく共知れす、大勢のけはいにて餅をつく音せり。正月十八にち、主膳雪隠より煩付、廿日の暁死たり。

 其年の夏、柴崎又左衛門といふ者、三本杉の清水の側にて、七尺斗なり真黒の大入道水をくむを見て刀を抜飛懸り切付しに、大入道忽行衛なく成たり。久しく程過て、八ケ森に大きなる古むじなの死骸のくされて有りしを猪苗代木地小屋のもの見付たり。夫より絶えて何のあやしき事なかりしといへり。

【現代語訳】

猪苗代の妖怪・亀姫

 亀姫(かめひめ)は、ふく福島県猪苗代町の猪苗代城(亀ヶ城)に住みついていたとされる妖怪です。江戸時代中期の奇談集『老媼茶話』の三巻「猪苗代の城化物」に名が見られます。

『老媼茶話』にあります亀姫の奇談は次の通リです。

 一六四〇(寛永一七)年のことでした。当時の猪苗代城の城主は会津藩の第二代藩主・加藤明成で、堀部主膳という者が猪苗代城の城代を務めていた。

 一二月のある日、堀部主膳が一人でいるところへ見知らぬ禿頭の子供が現れ「お前はまだ城主に挨拶をしていない。今日は城主が会ってやるとのことだから、急いで準備をしろ」と言った。

主膳は「この城の主は我が主人・加藤明成、城代はこの主膳であり、他に城主などいない」と言い返して睨みつけた。すると子供は笑い「姫路のおさかべ姫と猪苗代の亀姫を知らないのか。お前の命運はすでに尽きた」と言い残して姿を消した。

年が明けて正月の朝、主膳が城の広間へ行くと、自分の席には棺桶や葬儀の道具などが置かれていた。家来たちに尋ねても、何者の仕業かはわからなかった。その日の夕方には、どこからか大勢で餅をつくような怪音が響くなどの怪異があった。その正月の一八日、主膳は便所で倒れ、二日後に息を引き取ったという。

 同年の夏のことである。七尺(約二・一メートル)もの大入道が田のそばで水を汲んでいた。それを見た城の武士が一刀のもとに斬り捨てると、それは大きな狢だった。以来、城で怪異が起ることはなかったという。

 「姫路のおさかべ姫」とは姫路城の天守に住んでいたとされる妖姫・長壁姫のことであり、亀姫は長壁姫の妹とされている。この話をもとにした泉鏡花の戯曲『天守物語』でも、亀姫は主人公・富姫(長壁姫)の妹という設定で、姫路城の姉のもとへ遊びに行く際、男の生首を土産に持参する描写がみられます。

 

 

〇加藤左馬助嘉明、同式部少輔明成御父子の節、猪苗代御城代堀部主膳相つとむ。

加藤明成(かとう あきなり)は、江戸時代前期の大名です。陸奥国会津藩の第二代藩主でした。

天正二〇年(一五九二)、加藤嘉明の長男として生まれました。寛永八年(一六三一)の父の死後、家督と会津藩四〇万石の所領を相続しました。慶長一六年(一六一一)の会津地震で倒壊し、傾いたままだった蒲生時代の七層の若松城天守閣を、幕末まで威容を誇った五層に改めました。また、城下町の整備を図って近世会津の基礎を築きました。

堀主水を始めとする反明成派の家臣たちが出奔すると、これを追跡して殺害させるという事件(会津騒動)を起こし、そのことを幕府に咎められて改易されました。その後、長男・明友が封じられた石見国吉永藩に下って隠居し、万治四年(一六六一)一月二一日に死去し、享年七〇歳でした。

長男(庶子)の明友は、はじめ家臣に養われていましたが取り立てられ、加藤内蔵助明友と名乗って加藤家を継ぎました。天和二年(一六八二)には近江国水口藩二万石に加増転封され、加藤家は幕末まで存続しました。

嘉明の死後、家督は嫡男の明成が継いだが、明成が暗愚なために家老・堀主水ら一党が出奔してそれを追討するという事件が起こって、私闘を禁じた江戸幕府の介入を招き、減封ののち嗣子を立てて家名存続との裁定となった。しかし明成が、正室をはばかって子はないと頑固に主張したため改易され、庶子の明友が近江水口藩二万石に封じられることで名跡が保たれました。

 

 

〇加藤左馬助嘉明、同式部少輔明成御父子の節、

加藤氏について

加藤 嘉明(かとう よしあき)

永禄六年(一五六三)~寛永八年(一六三一)九月十二日

加藤 嘉明は、豊臣秀吉の子飼衆で、賤ヶ岳の七本槍・七将の一人でした。伊予松山藩および陸奥会津藩初代藩主で通称は孫六、後に官位と同じ左馬助と改めました。諱の嘉明も後の名乗りで、初めは茂勝(繁勝)と名乗っていました。

 家康の家臣であった加藤教明の長男として永禄六年、三河国幡豆郡永良郷(現在の愛知県西尾市)で生まれました。生まれた年の三河一向一揆で父が一揆に組して家康に背き、敗れて流浪のみとなり、義明も放浪したようです。

 流転の後、近江国に至り、父は長浜城主羽柴秀吉につかえました。矢嶋郷に住み、嘉明は馬の行商を手伝っていましたが、幼少ながら優れた素質があるということで加藤景泰に見いだされ、秀吉に推挙されたといいます。秀吉は、嘉明を景泰の猶子としました。この時に加藤姓を名乗るようになったとも言いいます。

 秀吉は、嘉明を養子の羽柴秀勝の小姓として仕えさせました。天正六年(一五七八)三月、秀吉軍に従って三木城攻囲に参加して初陣を飾っりました。

 

〇加藤嘉明 会津城主となる

 寛永四年(一六二七)、会津の蒲生忠郷死後の騒動で蒲生氏が減封となって伊予松山藩へ転じ、入れ替わりで嘉明が会津藩へ移封され、同時に四三万五五〇〇石に加増され、本拠を若松城に移しました。もともと家光は、要衝の会津に藤堂高虎を封じるつもりでしたが、高虎が固辞して嘉明を推薦したのです。高虎と嘉明は日頃から不和でありましたが、高虎はそれは私事であり国事として嘉明が適任者であるとして推挙したという話を聞いて、両者はついに和解し、以後は水魚の交わりの如くなったといいます。なお、三男・加藤明利は三春三万石を賜り、女婿・松下重綱も二本松に配されて、嘉明の与力とされました。

寛永八年(一六三一)、病を発し、九月一二日に江戸の桜田第で死去しました。享年六九歳てした。法名は松苑院殿拾遺釈道誉大禅定門です。麻布の善福寺で荼毘に付され、後に遺骨は東本願寺大谷祖廟に葬られました。法名も正保四年(一六四七)に東本願寺法主・琢如によって三明院道誉宣興と改名されています。

大正六年(一九一七)一一月一七日、大正天皇が特旨をもって嘉明に従三位を追贈しました。

〇 猪苗代御城代堀部主膳相つとむ。禄壱万石。

猪苗代の城代について

城代(じょうだい)とは、中世から近世の日本で大名から城郭及び周辺の領土の守備を任された家臣をいいます。城主の留守中に代理としてお城を管理した人です。

戦国時代には守護・守護代などから発展して一国以上の支配領域をもつ地域権力である戦国大名が出現しました。戦国大名の領国支配においては直轄領のうち拠点城郭である支城の防備や支城に付属する支城領の支配について、大名家当主から公権力の一部を分与された家臣が城代と呼ばれ、城代の支配する領域は城代領と呼ばれます。

 堀部主膳は、加藤嘉明から猪苗代の城とその地域をまかされていた有力家臣でした。俸禄は一万石でした。一石は現在の一五〇㎏です。一万石は六〇Kの米俵二万五千俵です。一俵が一万円と計算すると二億五千万円になりますが・・・計算大丈夫かな?

数字大きすぎて、検討つきません。・・・(汗)

〇寛永十七年十二月、主膳只壱人座敷に有ける折、

 寛永一七年(一六四〇)の頃の会津藩では、はどんなことがあったのだろうか

 その前に、寛永一三年(一六三六)の江戸城手伝い普請における堀の開削費用、蒲生秀行時代の地震で傾いていたままだった自らの居城若松城の天守を五層に改める工事、出丸工事など多額の出費が相次ぎ、加藤家の財政は逼迫していった。このため加藤家は領民にかける年貢を厳しく取りたた、寛永一九年(一六四二)から翌年にかけて飢饉が藩を襲った際、農民二〇〇〇人が土地を捨てて他藩に逃げる騒動にまで発展した。

 また明成は、その激しい気性から嘉明の時代からの家老である堀主水との対立を引き起こし、寛永一六年(一六三九)四月には堀が一族三百人を引き連れて若松城に向けて発砲し、橋を焼き、芦野原の関所を突破してて出奔して激怒した明成が血眼になって主水を追うという御家騒動(会津騒動)にまで発展しています。

 主水は幕府に嘆願してまで高野山に逃げ込みました。明成は主水の身柄の引きき渡しを求め、寛永一八年(一六四一)進退に窮した主水は高野山を下りて三月に江戸に赴き、城の無断改築や関所の勝手な新設など七ケ条を挙げて、明成を幕府に訴えでました。しかし、将軍家光自らの裁断により、主に非があるのは認めましたが、それを諌めずあるいは自らの生命をもって諫死せず、主家に叛いて訴え出るのは義に外れており、非は主水にあるとして、主水の身柄は明成に引き渡され、激しい拷問が行なわれて主水は殺害された。

江戸城や居城の修復、飢饉、家臣との争い等々、大変なこと続きでしたね。

こんな時代背景があったのですね。

 

〇いつくともなく禿来りて、

禿とは

禿(かぶろ、かむろ)とは、頭に髪がないことを言いようです。肩までで切りそろえた児童期の髪型、あるいはその髪型をした子供を指します。狭義では、江戸時代の遊郭に住む童女をさします。また、『平家物語』では、平安京に放たれる平家方の密偵を禿といいました。

『平家物語』には、平安時代末期に平清盛が実権を握った際、「禿、禿童」(かぶろ、かむろ)と呼ばれた多数の禿の頭髪の童子(及び童形の者)を平安京内に放ち、市井の情報、特に平氏に対する批判や、謀議の情報などを集めて密告させたことがしるさている。同時期に編まれた『玉葉』や『愚管抄』にはその記述は見られない。

 ※一四、一五歳の童三百人を選んで、髪をかむろに切りまわし、赤い直垂を着せ、京の市中を徘徊せさ、平家のことをあしざまにいうものあれば、これを聞きただして、その家に乱収し、資材、雑具を没収し、当人をとらえて六波羅に検束した。市中のものはおそれて関わらないようにした。禿童は自由に宮中にさえではいりし、禁門をとおっても姓名をたずねる者さえなかった。

猪苗代の城化物』の最後に、

八ケ森に大きなる古むじなの死骸のくされて有りしを猪苗代木地小屋のもの見付たり

とあり、狢は「たぬき・はくびしん」のようですから、狢が禿に化けていたというこですね。

 水木しげるの著書にみられる「大禿(おおかむろ)」とは別のようです。

大禿は、巨大な顔をみせて人間をおどろかす妖怪です。たとえば家の外で物音がしたので、家人が障子を開けてみると突然現れたりします。正体はタヌキが化けたものとされています。人を驚かすことのみが目的であり、直接的な危害を人間に加えることはないといいます。

 

〇「汝久敷此城に有といへ共、今に此城主に御目見をなさす。いそぎ身をきよ

め上下を着し来るへし。今日御城御礼請させらるへしとの上意也。敬て御目見へ可仕」と云。

上下とは

(かみしも)とは、和服における男子の正装の一種。

裃は「肩衣」(かたぎぬ)という上半身に着る袖の無い上衣と、「袴」の組合せで成り立ち、それらを小袖の上から着る。その多くは肩衣と袴を同色同質の生地で仕立て、肩衣の背と両胸、袴の腰板の四か所に紋を入れている。上(肩衣)と下(袴)を一揃いの物として作る衣服であることが命名の起源である。ただし継裃(つぎかみしも)といって肩衣と袴の色や生地がそれぞれ異なるものもある。室町時代の頃に起り、江戸時代には武士の平服または礼服とされた。

百姓や町人もこれに倣い式日に着用することが多かったので、現在でも伝統芸能や祭礼などにおいて用いられる。また公家においても江戸時代には継裃を日常に着用していた。当初は「上下」と表記されたが、江戸時代の内に「𧘕𧘔」と書かれるようになり、更に「裃」と合字化された。

 

 禿が云う事には、「汝(猪苗代御城代堀部主膳)は猪苗代城代になって久しいが、この城主に挨拶をしていない。急いで身を清め上下(かみしも)を着用し(亀姫様の所へ挨拶に)来るように」という。

 今日、御城で(亀姫から)礼(返礼か)を請けさせるようにせよとの上意(命令)である。敬いて(挨拶のために)お目見えをせよ。

と云う。

 以上の内容の事を禿から伝えられた、猪苗代御城代堀部主膳でしたが、その言葉には従いませんでした。

 

 

〇主膳聞て禿を白眼、「此城主は主人明成、当城代は主膳也。此外に城主あるへき様なし。にくきやつめ」と禿をしかる。

猪苗代城代・堀部主膳は禿の話しを聞て禿をにらみつけた。

「この城の主は(加藤)明成、(猪苗代)城代は主膳である。この他に城主はない。にくきやつめ」と云い、禿をしかった。

白眼(はくがん)とは、目の白い部分、白眼のことです。

中国の晋の阮籍(げんせき)が、気に入らない人には白眼で接したという中国の史書「晋書」に掛かれている古事からきています。つまり、冷たい目つきです。

 

 ※阮籍(げんせき)(二一〇~二六三)

  日本でいうと、弥生時代に当たります。中国の魏の思想家で文人でした。陳留(河南省)の人です。字は嗣宗、竹林の七賢の1人です。酒を好み、礼法を無視し、白眼。青眼の故事で有名です。老荘の学を好み、『達荘論』『大人先生伝』を著しました。

  魏といえば、卑弥呼が魏に使いを送っていますね。そして、私の大好きな『三国志』があります。

 ※竹林の七賢とは

  中国晋(魏の曹操が興した魏でしたが、司馬氏にとられて晋と国名がかわります)の時代に、俗塵を避けて竹林に集まり、清談を行った七人の隠士をいいます。阮籍(げんせき)・嵆康(けいこう)・山濤(さんとう)・向秀(しょうしゅう)・劉伶(りゅうれい)・阮咸(げんかん)・王戒(おうじゅう)をいいます。

 

 

 

〇禿笑て、「姫路のおさかべ姫と猪苗代の亀姫をしらさるや。汝今展運すてに尽果て、又天運のあらたまる時を知らす。猥に過言をは咄出す、汝か命数もすでに尽たり」と云て消失たり。

姫路のおさかべ姫とは

長壁姫(おさかべひめ)とは、日本の妖怪で、姫路城に隠れ住むといわれる女性の妖怪です。小刑部姫刑部姫小坂部姫とも書かれます。

長壁姫は、姫路城の天守に隠れ住んでおり、年に一度だけ城主と会い、城の運命を告げていたと言います。

松浦静山の随筆『甲子夜話』によれば、長壁姫がこのように隠れ住んでいるのは人間を嫌っているためとあり、江戸時代の怪談集『諸国百物語』によれば、天主閣で播磨姫路藩初代藩主池田三左衛門輝政の病気平癒のため、加持祈禱をしていた比叡山の阿闍梨の前に、三十歳ほどの妖しい女が現われ、退散を命じた。ところが、逆に阿闍梨が叱咤するや、身の丈2丈(約6メートル)もの鬼神に変じ、阿闍梨を蹴り殺して消えたという話が残っています。

 

 

 

〇明る春正月元朝、主膳諸氏の拝礼を請んとて、上下を着し広間へ出ければ、広間の上段に新敷棺桶をそなへ、其側に葬礼の具揃置たり。又其夕べいつく共知れす、大勢のけはいにて餅をつく音せり。

 あけた翌年の春正月元旦、主膳は、配下の新年の挨拶をうけるために、上下を着て広間へいくと、広間の上段に新しい棺桶が置かれていた。側には葬礼の品々が揃え置かれていたのであった。又その夕べに何処からとも知らないところから、大勢で餅を搗く音がした。

〇主膳雪隠より煩付、廿日の暁死たり。

 

正月十八日、主膳は雪隠(トイレ)で(たおれてから)病気と

なり、二十日の明け方にしぼうしたのであった。

 

〇其年の夏、柴崎又左衛門といふ者、三本杉の清水の側にて、七尺斗なり真黒の大入道水をくむを見て刀を抜飛懸り切付しに、大入道忽行衛なく成たり。

 

 

 その年の夏のことであた。柴崎又左衛門と云う者が、三本杉の清水の側で、七尺もの大入道が水をくむ姿を見かけて、刀を抜き、すぐさま飛び掛かり切り捨てた。大入道は、たちまちどこともなくいなくなった。

 

 

 

〇久しく程過て、八ケ森に大きなる古むじなの死骸のくされて有りしを猪苗代木地小屋のもの見付たり。夫より絶えて何のあやしき事なかりしといへり。

 しばらく時過ぎたころ、八ケ森(摺上原の東部)に大きな古い狢の死体が腐った状態で、猪苗代の木地小屋の者(森林から木を伐り出して椀など木製品を作って生活していた村人)が、見つけった。それ以来、あやしい事がおこることがなくなったという。

 

 

『老媼茶話』

 『老媼茶話』(三坂大弥太春編選・寛保二年序)は、写本で伝わる近世中期の奇談集である。

続帝國文庫『近世奇談全集』に翻刻され或る程度知られた作品であるが、具体的に研究の俎上に上った事はなかった。

一般的には福島県会津地方を舞台とした地方奇談集として認識されていたようである。

また続帝國文庫でみる限り四九話の奇談を収めた小品である。

ところが現存する諸本は、その何れもが同名異者かと見紛うばかりに異本化している。

 『老媼茶話』の概略が、『想山著聞奇集』(三好想山編・嘉永三刊・五巻)の「老媼茶話に曰」として一話を引用した後に

  此茶話と云は、今会津藩の三坂氏の人の先祖なる由、三坂越前守隆景の後寛保年間にしるす

書にて、元十六巻有て、会津の事を多く記したり。此本今零本と成て漸七八巻を存せり。尤其家にも全本なして聞伝ふ。如何にや、多く慥成怪談等を書す。

 作者は会津藩の三坂氏である事、寛保年間の成立である事、祖本は十六巻在った事、既に半分が散佚していることなどを記している。

作者については、会津藩士の記録『諸士系譜』(天保四成・写本三四二冊)によって三坂五郎左衛門編(家督相続前は大弥太)という人物であろうと推定できる。

成立年代については、序文に「干時寛保二年戌年十月廿二日/邊隅幽栖柴扉散人/松風庵寒流」という署名がある。

また祖本が十六巻在った事については、現存諸本の序文に幾つか見える「いつとなく十六冊になりぬ」との記述に一致する。

そして、十六巻の『老媼茶話』は幕末に至って既に散佚状況にあったという。

 

 高橋明彦著 「 『老媼茶話』の諸本 」より引用

 ※ 『老媼茶話』には、「猪苗代城の化物」の話しがあり、ここに「亀姫」が書かれています。

   そこで、今回は、 『老媼茶話』の諸本を研究した文献より引用させていただきました。

会津藩士の三坂氏が、寛保年間(1741(2.27改元)~1744(2.21改元))に書き、幕末には散逸状態であることや、もともと十六冊であっのが、流布するにつれて新たな話が書き加えられていったことが知られます。

 

 

 

会津領主の変遷と猪苗代城代

 

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