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  1. 猪苗代城の妖怪・亀姫
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歴史ネタ帖

カテゴリー:古代

安寿と厨子王丸 (あんじゅ と ずしおうまる)前(さき)の奥羽五十六郡の太守、岩城判官正氏の一族は、讒言(ざんげん。虚偽の悪行をでっち上げて人を陥れる事)によって筑紫に流された。本国に残され落魄した正氏の…

平氏打倒ののろし1180(治承4)年の春4月、平清盛は、長い間の望みをやっと果たし、喜びの絶頂を味わっていた。このとき、高倉天皇が退位して上皇となり、清盛の娘、徳子が生んだ言仁(ときひと)親王が、3歳の若さで即位(安徳天皇)したので…

蝦夷の国 蝦夷というのは、東北地方の中央から北部にかけて住んでいた人々に対して、当時の都の人々がつけた呼び名である。もともと大和朝廷の勢いが、東北地方にまでおよんでいったのは、大化の改新以前からのことであった。それは大化のころに、この地…

期待をこめた都早良親王の怨霊をあそれた桓武天皇が、和気清麻呂の進言を取り入れ遷都を決意したのは、792年(延暦11)ころのことであったらしい。このとき長岡京の建設は、まだ終わっていない。むしろ、平城宮の諸門を解体して長岡にはこぶなど、工…

長岡京の建設 即位から三年の784年(延暦3)、桓武天皇は、山城国(京都府)に長岡京の建設をはじめた。「新しい政治をすすめるには、都をうつして、人々の心を新たにする必要がある。それに長岡は、水陸の交通が便利で、都をつくるのにふさわし…

桓武天皇の意気込み 781年、44歳という働きざかりで即位した桓武天皇は、ただちに乱れた政治を改めることに手をつけた。その第一は、優れた人材を登用し、問題のある中央・地方の官僚は厳しく処断することによって、律令政治を引き締めることである…

崩れる地方政治の仕組み 中央で権力争いが続けられていたころ、地方政治にも大きな変化が生まれてきていた。その主な現れとして、私有地の増大、地方官僚の腐敗などをあげることができる。☆耕地をふやす努力 朝廷が政治の基礎にしようとした公地公…

道鏡を退けた神の声藤原仲麻呂が死んだあと、僧の道鏡が朝廷の実力者となった。かねて道鏡を信頼していた孝謙太上天皇は、淳仁天皇を淡路島へ追放したあと、再び暗いについて称徳天皇となり、道鏡を左大禅師に、つづいて、太政大…

藤原仲麻呂の全盛と没落 橘奈良麻呂をはじめ、反対派の皇族や有力貴族を押さえつけた仲麻呂は、前にもまして、思うままのふるまいをするようになった。まず758年(天平宝字2)には、皇太子大炊王(おおいのおう)が即位して、淳仁天皇となった。…

藤原氏の進出 奈良時代のはじめ、政界にめざましく進出してきたのは、藤原不比等とその子孫たちであった。不比等は、大化の改新で手柄のあった中臣(藤原)鎌足の子である。とはいっても藤原氏は、もともと朝廷の中での特別な有力者であったというの…

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猫は、真実を見ている。 はじめまして、黒坂メイ(ペンネーム)てす。「分かりやすい・簡単・安心して使える歴史ネタ」を提供し、「そうなんだなぁ」と歴史を身近に感じて頂けるホームページを目指しています。 宜しく、お願いいたします。

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