閉じる
  1. 猪苗代城の妖怪・亀姫
閉じる

歴史ネタ帖

平安楽土、万年の春

期待をこめた都

早良親王の怨霊をあそれた桓武天皇が、和気清麻呂の進言を取り入れ遷都を決意したのは、792年(延暦11)ころのことであったらしい。このとき長岡京の建設は、まだ終わっていない。むしろ、平城宮の諸門を解体して長岡にはこぶなど、工事は依然としてすすめられていたのである。それなのに遷都を決意するというのは、怨霊に対するよほどの恐怖があったからなのだろう。遷都の場所として定められたのは、京都盆地の北西部、長岡京の建設を援助してきた秦氏の本拠地のあったとこである。太秦にある広隆寺は秦氏の祖河勝がつくった寺だというし、大内裏の建設は河勝の邸跡に設定されたといわれている。工事がはじめられたのは、793年のことだが、天皇は、遷都を急いだ。天皇は、この年の3月から毎月のように建設現場に出かけ、工事を督励したというが、それも遷都を急ぐ気持ちの表れだったといえる。

こうして794年の六月には、最小限必要な建物だけはできあがつたので、10月22日、天皇はさっそく新しい都に移った。そしてその翌月、遷都の喜びをにじませた詔を出している。「此の国は山河襟帯にして自然に城を作す、この形勝によりて新号を制すべし。宜しく山城国を改めて山城国となすべし。又子来の民、謳歌の輩、号して平安京と曰え」

ここは、山が四方を取り巻き河川は帯のごとくながれる要害の地である。しかし山背の名は宮子のある地にはふさわしくないから、山城としよう。今後は、子来の民(親を慕う子のように皇徳を慕ってあつまる民)も世の栄を喜ぶ人々も、ともに平安京と呼べ。というのである。

さらに、明けて795年の正月には、貴族たちによる踏歌の催しが行われたが、このとき彼らは、「・・郊野は道平らかに、千里も望まれ、山河は美をほしいままにして、四周に連なる」という歌詞を高らかにうたうとともに、さらに「平安楽土、万年の春」の言葉を何度も唱えつづけたという。これもまた、新しい都への期待をこめたものだったのだうろ。

 

 

平安の都  進まない工事

遷都はしてみたものの、大内裏の中でさえ、未完成の建物が多かった。まして大内裏の外には、また田畑や泥沼・荒れ地などが広がっていた。そのうえ、雨が少し降れば、たちまち洪水を起こすような川が、幾筋も流れていた。

その広々とした一帯には、たくさんの人夫が鍬をふるい、土を運んでいた。洪水を防ぐために、川の流れを変える。泥沼を埋め立てて平地にする。その平地に、設計図にしたがって杭を打ち、縄を張り、幅広い道路を通していく。人夫の数は、数えきれないほど多い。おそらく、何千、何万という人たちが、役人に指図されながら働言い手いたのではないだろうか。のような状態は、都をうしつたあとも、長く続いていたにちがいない。それに加えて、全国から集めてきた人夫が、いつのまにか逃げ出していってしようという問題も起こっていた。同じようなことは、前の時代の平城京の建設、東大寺の造営のときなどにもおこっていたが、平安京の場合にも、そのくり返しがおこなわれていたのであった。

仕事は苦しいし、食糧も衣料も不足しがちである。それに、故郷に残してきた家族や、忙しい田畑の仕事も気にかかる。そこで「早く故郷に帰りたい。妻や子供の顔を見たい」という思いにかられ、厳しい罰を承知のうえで、人夫たちは逃げ出していったのだろう。さらに、長岡京の建設から平安京の建設へと、莫大な費用がつぎこまれてきたことも忘れることはできない。

 天皇は、遷都後の数年間は、毎月のように都の中を回り、講じを督励していたらしいが、やがて805年(延暦24)、講じ中止の命令が下されることがくる。

 

 

都の様子

平安京は、平城京(奈良)と同じように、唐(中国)の長安京をまねてつくられたものである。東西4570m、南北5312mの長方形で、周囲には、高さ3mほどの土手(羅城)をめぐらしてあった。都のメーンストリートは、大内裏から南へまっすぐ通じる、幅85mほどの朱雀大道である。また、この朱雀大路に平行に、また直角に交わる大路・小路がつくられ、都の中を坊・保・町・門などの区画に分けていた。

大路で囲まれた一坊は、ほぼ570m四方。これを四つの保、16の町というように細かく区切り、最小の単位は門で、これは南北15m、東西30mほどの長方形の土地であった。そして、普通の人々は、一つの門の中に住宅をかまえたのである。

これに対して公卿や政府高官の邸は、一つの門だけでは、狭すぎる。そこで、一つの町、一つの保ほどの広さの土地をもらって、邸をかまえる者がいた。一つの待ちというと、ほぼ120m四方の広さになる。その公卿・高官などの邸が多かったのは、左京の一条から五、六条のあたりであった。ここでは、大路には、柳・桜などの街路樹が植えられて、美しい街並がつくられ、美しく飾りたてた牛車や輿、得意気に行き来する役人たちの姿も多かった。

羅城門(平安京の正門)をはいって1000mほど行ったところにある、東市と西市のあたりも、都らしいにぎわいをみせているところであった。東市には51の店、西市には33の店があって、1つの店は一種類の品物だけを売っていた。品物としては、絹・糸・薬・太刀・塩・干し魚・生魚・牛・馬など、さまざまなものがあったらしい。この東西の市は、一カ月を前半と後半にわけて開かれた。1日から15日までは東の市、16日以後は西の市が開かれたのである。市が開かれる日は、正午になると太鼓の合図とともに大門があけられる。開聞と同時に、おおぜいの人がなだれこんでいくのであった。そのなかには、老人も子供も、粗末な服装の貧しい人々も、ときには公卿や政府高官の姿も見られた。いつの世でも、買い物は楽しいし、気がまぎれる。平安京のころでも、市へへ出かけるのを、楽しみにしていた人が多かったにちがいない。それに市の中では、当時の人々が楽しみにしていた、散楽と呼ばれる演劇も行われたらしい。それは、市のにぎわいを、いっそう高めていた。朱雀大路の北の端にあるのが、大内裏である。

東西約1150m、南北約1400mの広さで、この中に多くの役所と、天皇の住まいである内裏があった。この大内裏は、瓦をのせた高い垣で囲まれ、多くの門から出入りできるようになっていたが、それらの門の中では、正面の朱雀門が正門であった。

ただ都全体も見渡してみると、この大内裏から見て右側(西側)の右京(西の京ともいわれた)の一体は、だいたい人家の少ない、さびしいところであった。なかには、雑草がおいしげり、牛や馬を放し飼いにしているところもあったらしい。都を平安京にうつして200年余りたったころに、慶滋保胤(よししげのやすたね)という学者が『池亭記』という文を書いたが、それによると、右京の地には、草が深く、狐や狸がすみ、さびしく荒れはてた土地が多く広がっていたという。

つまり平安京は、都つくりの計画はできていたけれども、その計画どおりに都がつくられ、その都いっぱいに家が建ち、人々がにぎやかに住んでいた、というわけではなかったのである。長い間、平安京の街並みは、五条大路から北、それも東よりの方(左京)を中心に発達し、そのあたりが、都の人々の主な活躍の舞台になったのであった。

 

 

平安京  東西の市

平安京の東西の市は、一か月を前半と後半にわけて開かれた。1日~15日までは東の市、16日以後は西の市が開かれたのである。市が開かれる日は、正午になると太鼓の合図とともに大門があけられる。開門と同時に、おおぜいの人がなだれこんでいくのであった。そのなかには、老人も子供も、粗末な服装の貧しい人々も、ときには公卿や政府高官の姿も見られた。いつの世でも、買い物は楽しいし、気が紛れる。平安京のころでも、市へ出かけるのを、楽しみにしていた人が多かったにちがいない。それに市の中では、当時の人々が楽しみにしていた、散楽と呼ばれる演劇も行われたらしい。それは、市のにぎわいを、いっそう高めていた。朱雀大路の北の端にあるのが、大内裏である。東西約千百五十メートル、東西約千四百メートルの広さで、この世に多くの役所と、天皇の住まいである内裏があった。

この大内裏は、瓦をのせた高い垣で囲まれ、多くの門から出入りできるようになっていたが、それらの門の中では、正面の朱雀門が正門であった。ただ都全体も見渡してみると、この大内裏から見て右側(西側)の右京(西の京ともいわれた)の一帯は、だいたい人家の少ない、さびしいところであった。なかには、雑草がおいしげり、牛や馬を放し飼いにしているところもあったらしい。都を平安京にうつして二百年余りたったころに、慶滋保胤(よししげのやすたね)という学者が、『池亭記 ちていき』という文を書いたが、それによると、右京の地には、草が深く、狐や狸がすみ、さびしく荒れはてた土地が多く広がっていたという。つまり平安京は、都づくりの計画はできていたけれども、その計画どおりに都がつくられ、その都いっぱいに家が建ち、人々がにぎやかに住んでいた、というわけではなかったのである。長い間、平安京の街並みは、五条大路から北、それも東よりの方(左京)を中心に発達し、そのあたりが、都の人々の主な活躍の舞台になったのであった。

 

関連記事

  1. 大阪城の築城  

  2. 道鏡を退けた神の声

  3. 大御所(家康)の死

  4. アメリカ行きに失敗した吉田松陰  

  5. 王政復古の大号令

  6. 姫路城主 池田光政と南総里見八犬伝

おすすめ記事

  1. 猪苗代城の妖怪・亀姫

猫は、真実を見ている。 はじめまして、黒坂メイ(ペンネーム)てす。「分かりやすい・簡単・安心して使える歴史ネタ」を提供し、「そうなんだなぁ」と歴史を身近に感じて頂けるホームページを目指しています。 宜しく、お願いいたします。

ページ上部へ戻る