一向一揆との対決
一向一揆
一向一揆とは真宗(浄土真宗)の信者(門徒という)が中心になって起こした一揆のことである。
15世紀の半ばにはじまり、16世紀つまり戦国時代を通じて猛威を振るったこの一向一揆は、各地の戦国大名を悩ました重要な出来事の一つであった。
例えば、特に門徒が多く、「一向一揆の王国」わ築いたといわれる北陸地方では、一向一揆と戦うことで精力を使い果たし、滅びていった戦国大名が少なくない。
1532年(天文1)には、近畿で大規模な一向一揆がおこった。
そのころ本願寺の法主であった証如(蓮如の孫)が、自ら指図して起こしたもので、参加した門徒の数は十万とも二十万ともいわれている。
そして彼らは、機内各地の大小名の城を攻め、他宗の寺を焼いて財宝を奪い取るなど、すさまじい勢いでいったいを荒らしまわったという。
後に詳しく記す徳川家康や織田信長も、一向一揆に苦しめられている。
家康は「街道一の弓取り」と噂されるほどの武将であったが、一揆はその居城である岡崎城を襲う勢いを示し、家康自身も銃弾二発を受けるという苦戦を強いられた。
信長もまた、長島一向一揆、越前一向一揆ゆ石山(大阪府)本願寺の鎮圧に苦労させられた。
一向一揆が強かったわけ
各地で起こった一向一揆は、戦国大名を苦しめた。
領国の武士団を統合して、強力な支配を行った戦国大名が、農民や在地の武士などを主力とした一揆に苦しめられたのには、理由がいくつか考えられる。
その一つは、信仰心によって、一揆軍が固く団結していたことである。
一向宗の信者にとって、仏との縁は、現生での主従関係よりも強いものだった。
例えば、徳川家康の三河では、家康が今川家に人質としてとらわれている間、辛苦を重ねながらも家臣団は強い団結を誇り、結束を崩すことがなかった。
しかし、三河で一向一揆が起こると、家康と製紙を誓った家臣の多くが一気に加担して家康に背いたのである。
もう一つは、一向宗の信者は、死を恐れなかったことである。
彼らは「進むは極楽、退くは地獄」と唱えて敵に向かっていった。
※ 吉崎御坊跡
1471年、越前守護朝倉氏の保護をうけた蓮如は、坂井郡細呂宜に寺院を建て、75歳で畿内に移転するまで、北国における教化の拠点にした。
これが吉崎御坊(道場)であるが、ここへは越前はもちろんのこと、加賀・能登・越中・越後・信濃・出羽など、各地からの参詣が絶えなかったという。
福井観光ホームページ
http://www.fuku-e.com/010_spot/index.php?id=103
浄土真宗中興の祖・蓮如上人が比叡山を追われて以後、北陸での布教の中心拠点に選んだ場所。現在でも付近一帯は「蓮如の里」と呼称されており全国からの参拝者が絶えない。毎年4月に盛大に開かれる「蓮如忌」は吉崎最大の伝統行事として賑わう。500年の伝統が息づく国指定史跡。
参考(観光ホームページより)
皆殺しにした長島一向一揆
信長に対抗する者は、各地の大名・武士だけではなかった。というより、天下布武をめざした信長にとって、最も手こずった相手が、ほかにいたのだといったほうがよいかもしれない。
それが一向一揆である。一向宗(浄土真宗)の信者が団結して起こすこの一向一揆は、信長の軍をしばしば敗北に追い込んでいたのであった。それだけに、一向一揆を討伐するにあたって信長は、少しもようしゃしなかった。
特に1574年、伊勢国(三重県)長島の一向一揆を攻めたときは、長島をとりまく川に何百の大船を浮かべて船上から大鉄砲をうちこんだ。一揆の人々が降伏を申し出ても許さない。そのうちに食糧がなくなって餓死する者が出はじめたが、一揆を憎む信長は、囲みをとこうとしなかった。そればかりか、二万人余りの男女がたてこもる城のまわりに柵をめぐらしてにげられないようにし、四方から火を放って、全員を焼き殺してしまったという。
この次の年には、越前の一向一揆を攻めたが、このときも、一揆の中心になつた者はもちろんのこと、一揆に加わったとみられた者は、老若男女の別なく、すべてを殺してしまった。
このことについては、信長自身が「府中(福井県武生市)のまちは、一帯に死体が散らばり、すきまもないほどである」と、手紙に書いたほどである。
村と講
各地の門徒は、身近な者同士で「講」という寄合をつくった。また講の人々は、なにかというと村の中にできた寺(末寺)に集まった。これらの講の中心になり、指図をしたのは、末寺の僧や村の有力者であった武士や大百姓である。こうして、僧や武士・大百姓たちは、信仰と生活との両方の指導者になり、村のまとまりはたいへん強くなった。
ところで、村の中にできた寺は、地方ごとに、有力な寺(有力末寺)を中心にまとまるようにもなっていた。しかも蓮如は、自分の子供をその有力末寺の住職にするようにしたので、寺の権威も高まるし、その下にある末寺を指導する力も強まった。その有力末寺の上には、山科本願寺ーー有力末寺ーー末寺ーー講という仕組みを、しっかりとつくりあげたのである。それは、法主を中心とする本願寺王国のようなものであった。
≪ 蓮 如 ≫
蓮如は、室町時代の浄土真宗の僧。本願寺第8世。本願寺中興の祖。同宗旨では、「蓮如上人」と尊称される。諱は兼壽。院号は新證院。明治15年に、明治天皇より「慧燈大師」の諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如とよばれる。応永22年2月25日京都東山の本願寺(現在の知恩院塔頭崇泰院付近)にて、本願寺第7世存如の長子として生まれる。母は存如の母に給仕した女性と伝えられているが、詳細は不明。幼名は「布袋丸」。親鸞の直系とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いた。蓮如は、第一夫人~第五婦人の間に14女・13男をもうけている。
※石清水八幡宮
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、京都府八幡市にある神社。
楼門
社殿は「八幡造」と呼ばれる独特の構造。楼門から奥へと、いずれも国重要文化財の、舞殿・弊殿・本殿と社殿が続く。
ここに、織田信長奉納の「黄金の樋」・「信長塀」などを納める。
当時の雨どいは、木製ですぐいたむので、それならば金属の樋にすればよいといい、この「黄金の樋」を寄進したという。現在も樋として役割をはたしており、行くとみられるといいます。