武名を高めた朝倉氏
武名を高めた朝倉氏
応仁の乱の後、越前国では朝倉敏景(孝景)が勢いを振るうようになった。朝倉氏は、越前国の守護斯波氏に仕え、同国の河口荘黒丸に居をかまえていた国人であった。しかし敏景は、いだいに周囲の荘園を侵略して勢いを強め、斯波氏の家政を左右するまでの実力をもつようになった。さらに応仁の乱での敏景の働きは、多くの武将たちの注目を集めた。主君の斯波義廉とともに山名宗全の西軍にくみした敏景は、東軍の各武将の軍を襲い苦しめるなど、目覚ましい活躍をして、一挙にその武名を高めたのである。
ところが、ここで彼にとっての重要な転機がおとずれた。こともあろうに、敵方である東軍の総大将細川勝元から、「西軍を寝返って、自分たちに味方してほしい。そうなれば、あなたを越前国の守護に任じよう」という申し入れがなされたのである。すでに名目的なものになりつつあったとはいえ、守護という地位は、敏景のようないわば田舎侍にとって魅力があった。しかし越前の守護は、幕府の管領を務めるほとの名門の斯波氏である。いくら下克上の世とはいえ、斯波氏に代わって自分が越前の守護になるということが許されるのだろうか。
さまざまに考えた敏景は、二年あまりの間返事を保留した。しかし、ついに1471年、寝が入りを決意した。そして約束通り彼は将軍義政から正式に守護職に任ぜられた。時に、敏景は44歳であった。その10年後、敏景は腫れ物をこじらせて急死するが、その後も朝倉氏は、一乗谷に本拠を構えて北陸一帯ににらみをきかすことになる。