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歴史ネタ帖

「天下布武」の歩み  ~ 美濃攻め ~

「天下布武」の歩み  ~ 美濃攻め ~

東海道の今川氏をおさえ、徳川家康と同盟を結んだ信長が、次の目標にしたのは、美濃(岐阜県)の斎藤氏であった。すでにこのころ、「まむし」とまでいわれた斎藤道三は、子どもの義竜と戦って敗れ、この世を去っていた。信長は、この道三(妻 濃姫の父)のとむらい合戦をするという名目で、美濃に攻め入ったのである。しかし、2万以上の軍をもつ斎藤氏の勢いは、信長の力でもたやすく破れるものではなかった。はじめて攻撃の手をくわえたのが桶狭間の戦いの年(1560)、斎藤氏の本拠稲葉山の井の口城を攻め取ったのが、1567年だから、およそ7年の年月がかかっている。その間、信長は、武田信玄や、浅井長政と手を結び、斎藤氏の家臣をひそかに味方にするなど、実に根気よくさまざまな手を打った。豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎秀吉)が、墨俣に「一夜城」を築いたという話もこの時のことである。墨俣は井の口城に近いうえ、美濃と尾張の境にあって、交通の面からも軍事上からも重要な場所であった。信長にしてみれば、ここを抑えることによって、美濃の斎藤氏をおびやかすことができるし、自分にも有利になるわけである。もちろん、井の口城攻撃の拠点にすることもできる。そこで佐久間信盛・柴田勝家など有力な武将に、ここに城を築くよう命じたが、いずれも失敗した。ここに登場したのが、豊臣秀吉である。18歳のときに小者として信長に仕えた秀吉は、このころ30歳。その明るさと機知を愛されて、足軽頭になっていた。

その秀吉は、蜂須賀小六の助けを借りて1200人余りの地侍を集め、その3分の1で敵の攻撃に備えさせるとともに、残りの3分の2を築城にあたらせた。その一方、川の上流に築城の材料を用意し、筏で一気に下流の墨俣に運んだ。少しずつ材料を運んだのでは、敵に邪魔される心配があったためである。この工夫によって、城はわずか数日でできあがったという。美濃攻めが成功したのは、この翌年のことであった。なお秀吉は、この築城の手柄によって墨俣城をあずかることになった。彼は、はじめて一城の主となったわけである。こうして美濃攻めに成功した信長は、この後「天下布武」(天下に武を布く 天下を武力で治める)という印を使いはじめている。つまり、このときから、いよいよ天下統一の望みを、はっきり打ち出したのである。

 

姉川の戦い

美濃攻めが終わって三年後の1570年(元亀1)、信長は越前(福井県)の朝倉義景と戦うことになった。将軍足利義昭が朝倉と連絡をとり、信長打倒の命を出していたため、これを討伐しようとしたのである。この年の4月、四万の大軍を越前に向かわせ自らも出陣した信長であったが、この遠征は失敗した。近江(滋賀県)の浅井長政が信長を裏切り、背後から攻撃しようとしたからである。浅井長政は、信長と縁戚関係にあった大名である。

信長の妹お市の方が長政に嫁ぎ、三人の娘にも恵まれていた。それだけに、信長の怒りは強かった。さっそく報復の準備をととのえた信長は六月には再び兵をおくり、琵琶湖に流れ込む姉川をはさんで、朝倉・浅井の連合軍と九時間にわたるはげしい戦いを交えた。この戦いでも、織田の軍は苦戦であったが、徳川家康の軍の奮戦に助けられて大勝を得ることができた。ただ、これによって朝倉・浅井が壊滅したわけではない。この両大名が滅んだのは、その三年後のことである。滅亡に際して浅井長政は、その妻お市と三人の娘を秀吉のもとに逃がした。なおお市の方は、柴田勝家と再婚した。また、後に秀吉の側室として権力を振るった淀君は、お市の方の長女茶々である。

 

 

長篠の戦い

先に記した三方ケ原の合戦は、朝倉・浅井との戦いがつづいていた1572年に行われたものである。そして織田・徳川の連合軍は、武田信玄が率いる二万の軍の前に、散々な敗北を喫した。

幸運なことに、信玄の病気とそれに続く死が、信長・家康を救うことになったののだが、しかし信玄の死によって武田氏の力が衰えてしまったわけではない。信玄の跡は、その子勝頼が継ぎ、武田軍団の勢いは相変わらず強大であった。もちろん天下統一を志す信長にとって、最大の強敵の一つであったのである。つまり信長にとっては、いずれはたたかわなければならない敵の一つが武田軍団なのであった。その敵との決戦の日は、意外と早くやってきた。信玄が死んで2年、1575年5月21日がその日であった。この日、武田勝頼が率いる1万3千の武田軍は、三河国長篠城をめがけて押し寄せてきた。城将奥平信昌が徳川家康に寝返ったため、これをおこった武田勝頼が大軍を出動させたのだといわれている。迎え撃つ徳川の軍、それに応援にかけつけた織田信長の軍は、合わせて3万8千。城の近くの設楽原に陣を構えた。ただ、その陣の構え方は、それまでとはたいへん変わっていた。出陣にあたって、徳川家康も織田信長も、一人ずつに、柵にする木一本、縄一束を持っていくように命じたというが、まずこの木を組み立てて、いったいに高い柵をつくりあげたのである。これは、勇猛の誉れ高い武田の騎馬軍団の突進をさえぎる馬防柵であった。さらに、この柵のうしろには、三千の鉄砲隊をひかえさせ、いつでも銃弾をあびせられるようにもした。

 

戦いの開始とともに、このそなえに向かって、武田の騎馬隊が鬨の声をあげながら突っ込んできた。しかし、しっかりとつくられた馬防柵はなかなかうち破れない。そのうえ、鉄砲隊からは、次々に銃弾が発射される。戦いは、午前六時から午後二時にかけて八時間にわたったが、武田方の勇将たちは、徳川・織田方の本陣に達することもできず、次々に倒れていった。こうして、織田・徳川連合軍は、鉄砲を利用した新しい戦術によって大勝利をおさめたのである。織田信長は、ついに最大の敵の一つであった武田氏をおさえた。尾張の王織田信長の名は全国にとどろき、味方になりたい、家来にしてほしいといって近づいてくる大名・武士もふえた。「天下布武」という彼の望みは、着々と実現していったのである。

 

信長は、1576年、近江の安土に壮大な城(安土城)を築き、ここに移ったが、これも「天下布武」のもとを固めようとした気持ちのあらわれだったといえる。ちょうどそのころ、「上杉謙信、越後に死す」という知らせが信長のものへ届いた。謙信は、武田信玄とともに戦国の世に名をとどろかせた大名であり、信長と同じように、天下統一の志を強く持っていた武将であった。その競争相手が死んだ。信長はおそらく自分のもつ運の強さに驚き喜んだに違いない。

 

 

 

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