手を結ぶ薩長
手を結ぶ薩長
反目しあっていた薩長
これに対して薩摩の人々は、そのような憎しみを長州藩に対して持っていたわけではない。しかし、頑迷な者たちよというさげすみはあったろうし、さらにこの機会に長州藩を抑えれば、最大の競争相手を退けて、薩摩藩が政局の主導権を握れるという思惑もあった。当時の武士にとっては、藩の安泰と発展が何より大事であったから、この思惑は、藩の意志を決定する重要な要因の一つにもなったので
ある。
ところが、そのような憎しみや思惑を越えて、両者は急速に接近し強力しあうようになっていく。
西郷隆盛の評価
イギリス公使館の通訳として日本に来ていたアーネスト・サトウは、初めて西郷にあったときの印象をつぎのように記している。
「彼はたいへん感じが鈍そうで、いっこうに話をしようとせず、私もいささかもてあもした。しかし、その大きな目は黒ダイヤのように鋭く光っており、しゃべるときの微笑みは、なんともいえないほどの親しみをかんじさせた」
坂戸竜馬は、師匠の勝海舟から西郷の印象を尋ねられた
とき、次のように漏らしたという。「西郷というのは、どうにもよくわからない人物だ。こちらが少ししか叩かなければ小さくしか響かないが、強く叩けばいくらでも大きく響きかえす。もし馬鹿なら大馬鹿だが、利口ならば底知れないほどの大利口なのだろう」
これを聞いた勝海舟は後年「評される人人、評する人も人」と2人を褒めている。
薩摩藩と西郷・大久保
少し後のことになるが、朝廷と薩・長らが一緒になって、「すでに幕府の時代は終わった。幕府は政権を天皇にお返しすべきである」と幕府に宣言したときのことである。「勝手なことをいうな。江戸幕府の力は、まだまだ優勢なのだ。今こそ、京都へ攻めのぼって、薩摩・長州の軍を打ち破ってしまおうでないか」と息まく幕臣がすくなくなかった。そのとき、将軍・徳川慶喜は、『孫子』という本の一部をしめしながら、次のようにさとしたという。
「ここに『敵を知り、己をしれば、百戦あやうからず』と記されている。ではたずねるが、今の幕府には、西郷吉之助(隆盛)と同じようにすぐれた人物はいるか。また、大久保一蔵(利通)ほどの者はいるが。残念ながら一人もおるまい。そのようなことでは、たとえ大軍を率いて京都へ向かっても、とうてい勝つ見込みはない。みじめに負けたうえに朝敵の汚名をきせられるだけだ。だから決して戦いをしかけてはならないのだ」
いうまでもなく西郷・大久保は、薩摩藩の家臣である。いずれも、身分の低い武士の家に生まれながら、藩主島津斉彬に見いだされて藩の政治に加わり、薩摩藩を背負って立つ人物にまでなっていた。そして、この二人の優れた力は、将軍をはじめ幕府の多くの人々にまで高く評価されていたのである。
薩摩藩と西郷・大久保 2
ところで、激しくゆれ動く幕末の日々の中で、彼らはどんなことを考えながら薩摩藩の進べき道をさぐっていたのだろうか。
西郷にとって、どうしてもわすれられないのは、第一次長州征伐のとき、たまたま顔を合わせて話し合った勝海舟の意見であった。蘭学を学び、咸臨丸艦長としてアメリカへも行ったことのある勝海舟は、幕臣であながら、幕府のためだけを考えてはいない。むしろ今の世界の中で、日本はどうすべきなのかを、西郷に向かって次のように説いたのである。
「西郷さん、今は、国内で互いに争いあっているようなときではありません。それに、今の幕府には、とうてい天下を治めていくだけの力がないことは、賢明なあなたならすでに感づかれてすることでしょう。今こそ、力のある大名が協力して幕府の役人らに一撃をくらわし、共和政治〔大名会議〕を進めていくようにしなければなりません。そうしてこそ、日本は世界の中でのびていくことができるのです」
そのころの西郷は、幕府を倒そうなどと考えていたわけ
ではなかった。むしろ、幕府政治の中で、薩摩藩が有利な地位を占めるようにすること、また、諸藩に対して、薩摩藩が強い発言力を持つようになることを望んでいたのである。
しかし、勝海舟の言葉は、西郷に新しい目を開かせた。西郷はそのことを、おそらく親友の大久保一蔵にも聞かせ、ともに新しい日本が進むべき道について話し合ったことだろうと思われる。
薩摩藩と西郷・大久保 3
その大久保一蔵もまた、西郷と同じような考えを持ち始めていた。今こそ、実力のある大名が力を合わせ、幕府の力をおさえるとともに、やがては全国を治める新しい政府をつくりあげていこうというのである。この西郷や大久保を助けて、世界のくわしい情報を知らせたり、これからの薩摩藩、新しい日本の進むべき道を熱心に説いたりする人もいた。五代友厚もその一人である。
彼は、「攘夷などという考えは時代おくれです。」と断言していた。「それよりも大切なのは、藩の産業を盛んにし、進んで貿易を行って利益を得ること、また、それをもとにして軍事力を高めることです。そして、全国の藩が同じように富国強兵の道を歩むこと、力を合わせて国の政治を改めて行くことが何よりも大切なのです。」とも説いていた。
西郷や大久保が、五代たちの考えをじっくりときいたことはいうまでもない。それでなくとも、薩英戦争で外国の力の強さは充分に知っている。こうして薩摩藩は、西郷・大久保らを中心に新しい道をあゆみはじめようとしていたのであった。
長州藩と高杉・木戸(桂)
第一次長州征伐が行われ、さらに四国艦隊による下関砲撃で惨敗したあと、長州藩では、少しの間「幕府を倒せ。攘夷を実行せよ」というような勇ましい意見はきかれなくなっていた。むしろ、第一次長州征伐に無条件で降伏した以上、幕府のいうことをおとなしく聞いて静かにしているのがよい、それに攘夷もむだなことだ、という意見の者たちが、藩の政治の注進にたつようになっていった(これを俗論派とも呼んでいる)。彼らはまた、攘夷・倒幕を旗印にしている、高杉晋作がつくった奇兵隊をはじめ、他の諸隊に解散命令をだしたり、おさえつけようとしたりもした。
ところが、高杉晋作や奇兵隊の者たちは勿論のこと、諸隊の人々は俗論派ときびしく対決しようとした。人々はこれを正義派と呼んだ。
同じ長州藩の中で、この俗論派と正義派との戦いが始まったのは、1864(元治元年)12月のことである。
この戦いは、1カ月余りでけりがついた。正義派が圧倒的な勝利をおさめ、高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允)・伊藤俊輔(博文)・井上聞多(馨)・前原一誠などが藩の政治の中心にたつことになったのである。農民や町人の強い指示を得たことも、その勝利の重要な要因であった。
ところで、これらの中には、松下村塾で吉田松陰の教えを受けたものが多い。そのためはじめは、師・松陰の志をついで尊王攘夷を強く唱えていたのだが、しかしこのころには、その意見を大きく変えるようになっていた。例えば伊藤俊輔は次のようにのべている。
「私はイギリスにもわたって、海外の様子を自分の目で見てきました。その経験からいうと、日本がこれから発展するためには、どうしても開国をし、世界の国々と進んでつきあうことが大切だと思われます。ただしそのためには、国内を1つにまとめ、協力な政府が治めるようにしていかなければなりません。最近、尊王倒幕の世間がつよまりつつまありますが、これこそよい機会です。今こそ、長州藩の全武力を集めて幕府を倒し、日本を統一するという覚悟を決めるべきです」
これには、高杉晋作も桂小五郎も同じ意見であった。
「伊藤のいうことを実現するためには、まず藩内の産業を盛んにし、軍備をかためなければならない。さらに必要とあれば、赤間関(下関)を開港し、貿易の利をおさめるようにしてもよいではないか」というのである。しかも彼らは、その考えを着々と実行に移し成功していた。
このようにみてくると、薩摩藩・長州藩の中心になった人々は、同じころに、ほぼ同じようなことを考えはじめていたのだということがわかる。しかし、互いには、そのことを良くしらなかった。それに長州藩側には「薩摩は敵だ」という気持ちが根強く残ってもいた。
ただ、この協力な両藩が手を結べば、その力は、さらに強大なものになる。その時期は目の前に迫っていたのである。
※ 高杉晋作は中国の悲惨な状況を見てきているし、伊藤はイギリスに留学しています。
やはり、海外の情勢を理解していたからこその判断ですか。