イギリス公使パークス
薩長同盟 ~イギリス公使パークス~
薩摩と長州に目をつけ、この両者の手を結ばせようとした一人は、イギリス公使パークスである。彼は1865年(慶応元)に来日し、公使の役についた。
「この人は疲れを知らない精励家で、その職務に夢中にて取り組んだ。また、広く世の中の様子を見つめて、正しく判断する人でもあった」と、同じイギリス人からも褒められるほどであったパークスは、来日とともに日本国内の情勢をくわしく研究し、「幕府には、もうこれからも、薩摩と長州が日本の中心になるのではないだろうか」と考えるようになっていた。
こうなると、パークスの行動はすばやい、彼は、みずから薩・長の二藩にちかづくとともに、その片腕とたのむ商人グラバーに命じて、長州藩への武器売り渡しにあたらせた。幕府との戦いにそなえていた長州藩は、外国製の兵器をのどから手がでるほどにほしがっていたのである。また、グラバーは薩摩藩とも親しかったので、長州藩への武器売り込みやその輸送に薩摩藩の名を利用することも多かった。
こうして、パークスやグラバーを通して、薩摩藩に少しずつ接近がみられたのだが、この貿易にからみながら、しかもこの両藩をもっともはっきりと結びつけていったのは、土佐藩(高知県)の坂本龍馬やその同志・中岡慎太郎であった。
土佐藩で、商人でもある郷士の家にうまれた坂本龍馬は、明るくにぎやかなことのすきな快男児であったという。はじめ土佐勤王党にぞくしていたのだが、世界の情勢を目にするたびに、ねうじっとしていられない。ついに脱藩して幕臣・勝海舟にまなび、さらに勝が神戸につくった海軍操練所の熟頭として活躍したりした。このことからもわかるように、彼は一つの藩にじっととじこもっているよりも、もっと広い世界で自由に活動することを好んだし、そうするとここそ、新しい日本をつくるためにたいせつなことだと信じていた人物でもあった。
※ 薩摩藩と長州藩の手を結ばせたのは、坂本龍馬というのが一般的ですが、その前に、イギリス公使パークスがいたんですね。彼の先見性が一歩さきでした。
世界史視点で見直してみると、謎がとけていくかも?