南蛮人の渡来
南蛮人の渡来
戦国時代の出来事といえば、南蛮人の渡来のことも忘れることはできない。なお南蛮人というのは、みずからを中華と考え、周囲の者を東夷・西戎・南蛮・北狄と呼んだ中国の華夷思想をもとにして、南方から来たヨーロッパ任を、この名で呼ぶようになったものである。
≪日本を目指した人々≫
「大航海時代」という言葉がある。コロンブスのアメリカ発見、バスコ・ダ・ガマによる東インド航路の発見、マゼラン艦隊による世界一周などに代表されるような、海へ向かって冒険がさかんに行われた時代をさしていう言葉である。その主役となったのは、ポルトガル・スペイン(イスパニア)の国々であった。
例えばポルトガルのエンリケ王子は、ヨーロッパの中のすぐれた学者や船員を集め、大きな船を作ってアフリカの西岸を探検させたという。バスコ・ダ・ガマが、アフリカ南端の喜望峰をまわってインドにいたる、東インド航路を発見したのは、その結果ともいえるものであった。
一方、コロンブスがアメリカを発見し、マゼラン艦隊が世界一周に成功したのは、スペインのあとおしによるものである。もちろんこのような新航路の発見によって、ポルトガルやスペインの船は、新大陸をはじめ、東洋の各地と盛んにいききするようになっていた。この大航海時代こそ、我が国の戦国時代における世界の情勢だったのである。
≪ヨーロッパ世界の広がり≫
この時代、ヨーロッパ人はなぜ東洋を目指して来航したのだろうか。彼らの目的は富・といっても単にジパングの黄金が目当てだったのわけではない。かれらの最大の目的は、胡椒だったのである。ヨーロッパ人の主食はパンであるが、同時に肉もよく食べる。そのころは現代のように冷蔵庫があるわけではなく、肉などの保存は非常に難しかった。腐りかけた肉を食べるためには、大量の香辛料が必要だったのである。ヨーロッパ人は胡椒を求めた。
しかし、当時胡椒の産地アジアとの貿易は、交易路の中東地方を支配していたアラビア商人の手に握られていた。アラビア商人はこれで莫大な利益を得ていたのである。スペイン人やポルトガル人がアフリカ大陸南端を通ってアジア航路を開いたのも、大西洋を西に進んでインド航路を発見しようとしたのも、すべて、アラビア人による貿易の独占を崩そうとした試みであった。インドから帰ったバスコ・ダ・ガマの一行は、積みかえった胡椒で、莫大な財産を築いたといわれている。
戦国大名たちも一般の人々も、このような情勢を知っていたわけではない。むしろ、それまでの人々と同じように、日本・中国・インドの三国が世界のすべてであるかのように考えるのが普通であった。いっぽう、ヨーロッパの人々にとっては、日本はあこがれの的の一つであった。その理由は、14世紀ころ、元の皇帝に仕えたマルコ・ポーロ(イタリア)が、その著『東方見聞録』で、「この島(日本)の宮殿の屋根は、すべて黄金でふかれており、宮殿の道路や部屋の床にも、厚さ四センチほどの純金の板がしきめてある。そのうえ、窓さえ黄金でできているという、見事なものだ。ばら色の真珠も、たくさん産出する。大きく、まるくて美しい。たいへん高価なものである。この国では死体を土葬するときに、真珠を口の中に入れる習慣になっている。そのほかの宝石も多い・・・」という意味の紹介をしたことにある。
それにこのころ、日本国内を脱出して東南アジアに行き、ヨーロッパ人と会う日本人も少なくなかった。ヨーロッパ人の中には、それらの日本人から話を聞き、「なんとかして日本へ行き、有利な貿易をしたい」と考える者もいたらしい。こうして、戦国時代のころ、日本を目指すヨーロッパ人が、しだいにふえていったのである。
≪東方見聞録≫
『東方見聞録』は、マルコ・ポーロがアジア諸国で見聞した内容口述を、ルスティケロ・ダ・ピサが採録編纂した旅行記で、マルコもルスティケロもイタリア人であるが、本書は古フランス語で採録された。
1271年、マルコは、父ニコロと叔父マッフェオに同伴する形で旅行に出発した。
1295年にはじまったピサとジェノヴァ共和国の戦いのうち、1298年のメロリアの戦いで捕虜となったルスティケロと同じ牢獄にいた縁で知り合い、この書を口述したという。
東方見聞録は4冊の本からなっている。
1冊目・・・中国へ到着するまでの、主に中東から中央アジアで遭遇したことについて。
2冊目・・・中国とクビライの宮廷について
3冊目・・・ジパング(日本)・インド・スリランカ・東南アジアとアフリカの東海岸側等の地域について
4冊目・・・モンゴルにおける戦争と、ロシアなどの極北地域について。
日本では、ヨーロッパに日本のことを「黄金の国ジパング」と紹介したという点でよく知られている。しかし、実際はマルコ・ポーロは日本には訪れておらず、中国で聞いた噂話として収録されている。なお、「ジパング」は日本の英名である「ジャパン」の語源である。日本国(中国語でジーベングォ)に由来する。
当時のヨーロッパの人々からすると、マルコ・ポーロの言っていた内容はにわかに信じがたく、彼はウソつき呼ばわりされたのであるが、その後多くの言語に翻訳され、手写本として世に広まっていく。後の大航海時代に大きな影響を与え、またアジアに関する貴重な資料として重宝された。
探検家のクリストファー・コロンブスも、1438年から1485年頃に出版された一冊を持っており、書き込みは計366か所にもわたっており、このことからアジアの富に多大な興味があったと考えられる。
祖本となる系統本は早くから散逸し、各地に断片的写本として流布しており、完全な形で残っていない。
こうした写本は、現在138種が確認されている。