盲目の高僧 鑑真
盲目の高僧 鑑真
奈良時代における日本と唐との結びつきを考えるとき、唐の高僧、鑑真の来日のことを忘れることができない。
–高僧を求めて–
733年に難波の港を出発した遣唐船には、知太政官事〈いまでいうと首相代理〉から需要な命令をうけた二人の僧が乗っていた。栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)の二人がそれで、彼らは、「日本の僧たちの指導者となるような、そして戒律をさずけてくれるようなすぐれた高僧をおつれせよ」という命令を受けていたのである。
≪戒律≫とは、≪仏につかえる僧として守らなければならない決まり≫のことである。僧になっても、この戒律を授けられないと、指導者にはなれない。その戒律を授けるには、さまざまなしきたりがあったし、すべての戒律をしりつくした高僧がいなければならなかった。ところが、当時の日本には、そのような高僧がいなかった。そればかりか、仏教がさかんになるとともに僧の数が増え、その僧のなかには、修行や研究をおろそかにし、だらしない暮らしをする者も少なくなかったのである。そのためね高僧を求めて、二人の僧を唐にいかせたのである。
–鑑真との出会い–
栄叡と普照は、唐へついて仏教の勉強をするとともに、洛陽の大福寺にいた道せんに目的をはなし、日本に来てくれるようにたのんだ。道せんは、これを承知し、735年には日本へ向かった。吉備真備が帰国した同じ船である。二人の僧は、さらに高僧をさがした。そして、たまたま、長安の大安国寺の道抗に相談したところ、「私の先生の鑑真和尚に相談してみたら」という返事をえた。鑑真の評判は高く、二人もよく知っていた。その鑑真は、揚州の大明寺にいて、多くの弟子を教えているという。二人は、さっそく鑑真に会いにいった。鑑真にはすぐれた弟子がいるだろうから、その中から一人を推薦してもらおうと考えたのである。二人のたのみちを、鑑真はこころよく引き受けてくれた。
そして、「昔、思禅という高僧は、生まれ変わって、日本の王となり、仏教をさかんにして人々を救ったという。中国と日本とは、仏教を通じて深く結ばれた国だ。だれか、日本へ渡って、仏教を広めようと考える者はいないか」と、弟子たちに問いかけた。しかし、弟子たちの返事はない。やっと、「日本は海の向こうの遠い国です。それに大海を渡るためには、命を失う覚悟が必要だとも聞いています。とても無理ではないでしょうか」という答えが返ってきた。鑑真は声をはげましていった。「何をいうか。仏法のためなら、なんで命を惜しむことがあろうか。よろしい。だれも行かないのなら、私が行こう」この言葉に驚いた弟子たちは、次々に「和上がおいでになるのなら、私もまいります」と名乗り出たという。
≪苦難の船出≫
こうして、鑑真を中心とした来日の僧がきまったが、日本への船出は、苦難の連続であった。日本に来るには、遣唐船に乗り込むのが一番よいが、次の遣唐使はいつ来るかわからない。そこで、小さな船を用意し、単独で出航することにしたが、2年余りの間に、4回も計画したのに、そのことごとくが失敗に終わってしまった。
≪第一回目≫
鑑真のでしのうちの如海という若い僧が、つまらないいさかいを根にもって、「道抗という僧は、海賊と一緒になって船をつくり、食料も用意している」と役人に密告した。そのため、船は没収されて、計画は進められなかった。742年4月のことである。
≪第二回目≫
同じ年の12月、再び船の用意をした鑑真らは、185人(僧17人と玉造工・画家・彫刻家なとけの技術者)
らとともに揚子江を下り、日本へ向かった。しかし、突風に襲われて船はこわれ、目的を果たせなかった。
≪第三回目≫
このときは計画の途中で、「鑑真らは、ひそかに日本へ渡ろうとしている」と密告する者があって、栄叡がつかまり、計画は中止された。
≪第四回目≫
今度は、中国の南方の港から、こっそり出航しようとした。しかしこのときも、密告する者があって、とらえられてしまった。密告があったというのは、鑑真らが決まりをおかして出航しようとしたからというだけが原因ではない。鑑真のようなすぐれた高僧が、中国をはなれて日本へ行ってしまうことを惜しんで、なんとか行かせまいとして行われたのであろう。
こうして、2年余りの間の失敗で、しばらくの間は、計画を進めることができなくなった。
盲目となった鑑真
748年の春、日本では、東大寺の大仏づくりがさかんに進められていたころである。栄叡は、ひさしぶりに鑑真を訪ねた。もちろん、鑑真を日本におつれしたいという願を伝えに行ったのである。前の失敗から4年余りたっていたが、鑑真の決心は少しも変わってはいなかった。そして、「よろしい。すぐに準備しよう」という。こうして、同じ年の10月には、準備がととのい、出航できた。しかし、東シナ海へ出た鑑真らの船を襲ったのは、大風と荒波であった。そして、船は沈まなかったものの、遠く南方の海南島まで流された。さらには悲劇はつづいた。
栄叡は疲れがもとで死に、鑑真は盲目になってしまったのである。
753年、ふたたびチャンスが訪れた。この前の年訪れた遣唐船が、帰国するというのである。大使は藤原清河。彼は安倍仲麻呂とともに第一船に乗った。副使大伴古麻呂は第二船。鑑真がこっそりと乗り込んだのは、この第二船である。実は、第一船に乗る予定だったのだが、清河が反対したため、古麻呂の特別の計らいで、第二船に乗り込めたのであった。ところが、このときの第一船は遭難して、遠くベトナムまでながされ、清河も仲麻呂も、日本へ帰ることはできなかった。もし鑑真が予定どおり第一船に乗っていたら、きっと同じ運命になっていただろう。
しかし、出発間際のいざこざから、第二船に乗った鑑真は、無事に日本へたどりつくことができたのである。東大寺の大仏が完成していた日本では、鑑真を手あつくもてなした。鑑真もまた、唐招提寺を中心に、763年に75歳までなくなるので、日本のために尽くしたのである。