比叡山の焼き討ち
比叡山の焼き討ち
焼き討ち、皆殺しといえば、1571年9月に行われた比叡山延暦寺の焼き討ちも、すさまじいものであった。
延暦寺は、信長に敵対した浅井・朝倉軍を助けていた。
これを怒った信長は、ついに比叡山攻撃を決意し、「敵は山の法師どもぞ」「すべて焼き尽くせ、すべてを殺し尽くせ!」と命じたのであった。
この命令には、さすがに信長の部下たちも反対したらしい。
なにしろ比叡山延暦寺は、古くからの国家鎮護の寺として大切にされ、当時もまた、多くの人々にとうとばれていた寺である。
「どんなたたりがあるかもしれない」
「それに、世の人々は、比叡山攻撃をきっとうらむにちがいない」
などと心配したのである。
しかし信長は、決意を変えない。かえってこの攻撃に反対した明智光秀などは、「おまえは、真っ先に攻めのぼれ」と命令される始末であった。
こうして、比叡山攻撃がはじまった。
燃え上がる炎は、3日にわたって天をこがした。
京の人々はこの炎を遠く見ながら、「まるで鬼のしわざだ」と噂しあったという。
秀吉と比叡山
「全山を焼き尽くせ。皆殺しにせよ」という信長の命令に対し、秀吉だけは、それを十分には守らなかったらしい。
比叡山攻めの一方の大将として、秀吉は横川芳香谷から攻め入ったのだが、ここを通ってのがれようとした者を、むやみにとらえたり殺したりすることはしなかった。
仏像・経巻・宝物などを運び出そうとする者も、見逃してやったらしい。
おそらく秀吉は、残酷すぎる信長の仕打ちに共感することができなかったのだろう。
信長方の他の武将もたぶん同じ思いであつたろうが、信長の命令に逆らうほどの勇気はなかった。
この秀吉のふるまいによって、全山炎に包まれた比叡山でありながら、いくつかの価値ある宝物が、現代に伝えられることになった。
なお、秀吉は信長の死後に比叡山の復興を許し、多額の寄付もした。
しかし、比叡山の復興がほぼ終わったのは、焼き討ちにあってから百年余りたってからであった。
※ 比叡山延暦寺
延暦寺(えんりゃくじ)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。延暦寺の名より比叡山、また叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 – 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。