殉死 ~伊達政宗孫光宗 三慧院~
殉死 ~ 伊達政宗の孫光宗 三慧院 ~
七人の殉死者
仙台松島、瑞巌寺の左脇にある円通院の奥に三慧院がある。
ここは、伊達政宗の孫光宗の菩提所で、正保4年55月仙台第二代伊達忠宗の建造になるものとつたえられ、単層宝形造りの本瓦葺きで、殿内には壮麗な家形厨子を安置し、内部は鏡天井、内壁全面に金箔を貼り、外側は全面極彩色で、中央蟇股には金色の桃山桐の彫刻を入れ、日本最古と云われる洋バラ、紅水仙、ガーベラ、トランプ図案等が丹念に描かれている。
そして内には本尊の十一面千手観音、ならびに八幡神に擬して白馬に跨る光宗の像がおかれ、その左右には八金剛をかたどった七人の殉死者の像が祀ってあり、また霊屋の外庭左右に、その七人の殉死者の墓碑がたっている。
記録によると、このときに氏家市右衛門、 中川正右衛門、郡山善之允、中塚十兵衛、渡辺次兵衛、佐々木左衛門および加藤弥左衛門の七人が光宗に殉死したのであって、それがほうむられている。
死んだあとも殉死の対象となつた主人の霊屋や墓碑をとりかこむように立っているのが殉死墓の通例である。
他には、大分県の日出(ひじ)町の旧日出藩主木下家の墓地にある殉死墓はその典型的なもので、同じ形状の墓碑がひときわ大きい中央の墓碑のめぐりをグルっと取り巻いて立ったいる。
(中略)
殉死の全盛期は、全国的に、三代家光の時代を中心に訪れたことがわかり、したがつてその弊害もこの時期にその極に達したはずで、四代家綱が寛文3年5月に領布した「武家諸法度」に殉死禁制の一カ条を別書して示したのも、ゆえあることかなと思い当たるのである。
殉死の概念規定
戦場で主君と死を共にする精神の平和の世における表現と解する。
『明良洪範』に「せめて事に二世の御供もいたし君臣先祖の忠孝に備へん」とこころざすだけで、武士が殉死ができたわけではない。殉死の対象となる亡き主君から、その生前において、殉死してもよいという許可を得ておかなくてはならなかった。その許可が出ていないと、たとえ死んでも、それはただの犬死にすぎないのである。
(中略)
殉死する者と殉死される者との合意が必要であって、ひとり相撲は許されないことであった。
(中略)
女の殉死者はほとんど記録にも報告されていないから、殉死者はもっぱら男子にかかわることであったと考えて、まちがいないであろう。
『江戸時代 武士の生活』より要約
殉死する者と殉死される者との合意が必要であったこと、許可がなければ犬死になってしまうとのこと。
知らなかった。
やはり、そこには、人間関係とかがありますよね。