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歴史ネタ帖

アメリカ行きに失敗した吉田松陰  

開国をめぐって

アメリカ行きに失敗した吉田松陰

​​​ 1854年(安政元)3月、ペリーが2度目の来日をして、日米和親条約を結んだころのことである。下田の港内にとめられているアメリカ軍艦をめざして、こぎ出してゆく一艘の小舟があった。乗っているのは2人。24歳の吉田松陰と1つ年下の金子重之助である。​​​

 必至になって、なれない船をこいでいた2人は、やっとのことでいちばん岸近くにいたミシシッピ号にたどり着いた。しかし、ミシシッピ号の水兵たちは、どうしても2人の話しを聞いてくれようとしない。「旗艦のホーハタン号に行け」というばかりである。ポーハタン号にはペリー提督がいる。提督ならば、この2人をうまくあつかってくれると考えたからなのだろう。

 実は、この2人は、アメリカ軍艦に乗ってアメリカ本国に渡ろうと考えていたのである。

 やっとのこでポーハタン号に着いた2人は、その目的を熱心に訴えた。が、ペリーはその願いを承知してはくれなかった。このことについてペリーは、次のような意味の記録(『日本遠征記』)を書き残している。

「2人は疲れはてていたし、衣服もよごれていた。しかし礼儀正しく態度も立派で、上流の振子のように思われた。私自身は、2人の熱心さに打たれ、2人の之族をかなえ、アメリカへつれて帰りたいという気持ちが強かった。けれども、その気持ちのままに2人をあつかうことはできなかった。次のような考えが浮かんでいたからである。

 このたび日本は、私たちの要求を何とか受け入れ、条約を結んでくれた。私たちは、その行為を大切にしなければならない。その日本は、人民が海外に出ることを法律で禁じている。2人の望みは、アメリカ人から見れば罪にはならないような行動であるが、日本からすればおそろしい罪人なのである。このことをかんがえると、とうていその望みを受け入れるわけにはいかない。

こうして私は、2人の望みを断り、帰らせることにした」

 吉田松陰と金子重之助の望みは、ペリーにはっきり断られた。また、下田の岸に着いた2人は、とらえられて牢にいれられることにもなった。しかし2人は少しもわるびれたところがなかった。むしろ2人は、江戸伝馬町の牢にうつされてからも、堂々とふるまい役人たちを感心させた。その姿は、吉田松陰がよんだ、

 かくすれば かくなるものと 知りながら

 やむにやまれぬ 大和魂

という歌にも、よくあらわれている。

 それにしても2人は、なぜアメリカにわたろうとしたのだろうか。

 

アメリカ行きに失敗した吉田松陰 2

 前にも記したように、このころ攘夷論が急に高まっていた。「アメリカの武力におびえて、その要求を入れるのでは、彼に降参したと同じではないか。武力で押してくるのなら、こちらも武力で押し返すべきだ」という意見も強かった。​

​ 吉田松陰もおなじような考えをもっていた。しかし、彼の考えは、ただ、「外国船や外国人を日本によせつけるな」「武力に訴えてでも、打ち払ってしまえ」というような単純なものではなかった。むしろ松陰が考えたのは、「外国の様子をもっとくわしく知らなければならない。外国の様子を知ってこそ、日本を守り、日本を発展させるための最もよい方法を立てることができる」ということであった。​

​ このような考えは、松陰だけがもっていたものではなす。松陰が親しく交わり、その教えを受けていた佐久間象山も、おなじように考える一人であった。蘭学の勉強もしていた象山は、アメリカへ渡航しようとする松陰を励ますため、​「君は今、万里の道を行こうとしている。それは澄み渡った秋の空を、一羽の鶴が飛び立っていくようなものだ。今こそ、世界をめぐり、くわしく見てくるがいい。大きな仕事を果たすためには、思い切って行くことが大切だ。」​

 という意味の詩を贈っている。蘭学を通して世界の様子を知るようになった人々にとって、ペリーの来航は、「いよいよやってきたか」という思いとともに、「外国の様子をもって良くしらなければ・・・」というあせりもかきたてる重要なきっかけとなっていたのである。

 

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