妖怪ゲームセンター
妖怪ゲームセンター
盛り場の「妖怪娯楽」として、江戸時代にはよく知られていたものに「からくり的(まと)」がある。
これは、的を弓矢、もしくは吹き矢を使って射当てると、からくり仕掛けで妖怪などの人形が飛び出すという、射的と「モグラ叩き」を合わせたような大掛かりな遊戯装置で、いわば江戸時代のゲームセンターであった。
「からくり的」は伊勢参りの街道沿いに多く置かれ、旅人たちの娯楽となっていたようで、寛政9年(1797)刊の『伊勢参宮名所図会』にも描かれている。
1、手前に並んだ四角い的を狙って弓矢で射る
2、的があたり、舞台のようになったところから、鬼(『道成寺』の清姫が化した大蛇)や福禄寿などの人形が姿をあらわす。
3、弓矢で的を当手だ人物は、的にあたり急に、竜が出現したのに驚き、体をのけぞらしている。
4、これをみている隣にいる人物は、男がおどろいている様子を見て、腹を抱えてわらっている。
これこそが、「からくり的」の正しい楽しみ方であった。
突然の妖怪の出現により生じる驚きと恐怖、そして、その一瞬ののちはじけるような笑い。
「からくり的」は、恐怖を笑いに転換させる遊戯装置だったのである。
「からくり的」は伊勢路の名物であったが、江戸では随一の盛り場であった両国や、芝明神(飯倉明神宮)の境内などに「からくり的」が置かれていた。
弓矢より吹き矢を用いるものが一般的だったようで、もっぱら「吹矢店」と呼ばれていた。
とりわけ、芝明神の「吹矢店」は間口が七、八間(約13~15メートル)あったともいわれる大掛かりなものであった。
享和3年(1803)に刊行された山東京伝(さんとうきょうでん)の黄表紙『人間万事吹矢的』は、これに材を採ったものであったが、そこには実に56種類もの人形が描かれている。それだけの数の人形が出たり引っ込んだりを繰返すさまは、さぞや壮観だったことであろう。
「吹矢の化物」という常套句があつたほど、江戸時代にはよく知られていた「からくり的(吹矢店)」であったが、明治以降は急速に姿を消していった。
吹矢、そしてその後身である射的は、景品目当てに行われる「功利的」なあそびとなり、わざわざ自分で的を射て妖怪の人形を出し、スリルと笑いを買う「からくり的」の「粋」な精神はうしなわれていったのである。
江戸のポケットモンスター
江戸時代は、こどもたちのおもちゃが商品として売買されるようになった時代でもあった。
このおもちゃのなかにも、妖怪を題材としたものがしばしばみられる。
「妖怪玩具」のなかでもはやくからみられたのは「化物双六」であ。
これは享保(1716~36)のころには作られていたことが確認できるが、仏教の世界観をあらわした「浄土双六」を起源とする絵双六に、「道中双六」などの多彩なヴァリエーションがあらわれるのが元禄(1688~1704)のころとされていることから、「化物双六」は絵双六のなかでも古い部類に属するといえる。
「化物双六」は、一つ一つのマス目に原則一種類ずつ、妖怪を描いている。
そのため、「化物双六」は、「遊べる妖怪図鑑」とでもいうべきものになっている。
同様に、「遊べる妖怪図鑑」とみなすことができるのが、「化物カルタ」である。
カルタとはもともとポルトガル語で「カード」を意味し、16世紀に日本に伝えられた遊びであったが、これは現在のトランプのようなあそびであった(こちらは、のちに「花札」として日本的にアレンジされる。)。
これに対し、「いろはにほへと」ではじまる事柄を題材とした「いろはカルタ」の誕生は意外に遅く、文化(1804~18)前後、江戸時代も後期に入るころとされている。
「いろはカルタ」はもともとことわざが題材になっていたが、やがてさまざまな変わり種がちくられるようになった。
その一つに「化物カルタ」があったのである。
「化物カルタ」は、切離す前の状態では「妖怪図鑑」そのものである。
カルタは絵と詞を一致させることをめざしたゲームであり、それはまさに図鑑を作る作業を遊戯化したものであったといえる。
さらに、江戸時代末期から明治前期にかけて、画面をいくつかのマスに分割し、それぞれのマスに妖怪を一種類ずつ描いた「化物づくし」とよばれる「おもちゃ絵」(子どもの玩具として制作された錦絵)が大量に出回る。
これは、正真正銘、江戸時代の子供向けに描かれた「妖怪図鑑」であった。
「化物づくし」に描かれた妖怪は、よくしられた伝統的なものももちろんみられるが、その大半はみたこともないような独創的な妖怪たちであった。
もっと多くの妖怪を見たい、知りたいという人間たちの欲求が、「化物づくし」の無秩序なまでの多様性を生み出していたのである。
「化物双六」「化物カルタ」そして「化物づくし」は、現代でいえばポケモン図鑑のようなものだったといえる。
江戸時代の子供たちは、妖怪をリアルな恐怖の対象としではなく、さまざまな姿かたちを持った「キャラクター」として親しみ、その限界をしらない多様性を楽しんでいたのである。
妖怪のキャラクター化 ~江戸時代の化物たち~
草双紙の「化物(ばけもの)」たちは、それぞれ明確な性格づけがなされ、その「お約束」のなかで行動していた。
これは、まさに現代的な意味での「キャラクター」にほかならない。
草双紙の「化物」たちは、おのおのに振り分けられた「キャラ」にしたがつて行動し、そしてそれゆえの笑いを生み出していたのである。
さまざまな「妖怪娯楽」のなかで江戸時代の人びとに親しまれていた妖怪とは、このキャラクター化された「化物」であったのである。
江戸時代とは、妖怪が「遊び」の題材となった時代であったとともに、妖怪がキャラクター化していった時代であったといえるだろう。
それはいずれも、リアリティの喪失による妖怪の「虚構化」に根ざしたものだったのである。