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歴史ネタ帖

人魚のミイラの絵は、「コレラ(当時の赤痢)」除け

 

 

 

人魚のミイラの絵は、「コレラ(当時の赤痢)」除け

 八戸市博物館には、八戸藩九代藩主南部信順(のぶゆき)(天保9年に南部信真の婿養子として迎えられる、天保13年5月11日、信真の隠居より家督を相続する)が収集した本草学標本のコレクションが収蔵されているが、そのなかに「双頭の人魚ミイラ」がある。

信順は「蘭癖(らくぺき)大名(蘭学好きの大名)」として有名な薩摩藩主島津重豪(しげひで)の子で、彼自身も蘭学や本草学に大きな関心を寄せていた。

 この「双頭の人魚」は、そうした感心から、珍奇な動物の標本として収集されたものだったと考えられるが、残念ながら、国立科学博物館のX線撮影による調査の結果、完全な作り物であることが判明した。

下半身ははコイなどの坂名の胴体を利用したものであったが、上半身は骨などがまったくなく、木や針金などを芯にして成形されていた。

頭部にいたっては紙でつくられた張り子細工で、口の部分にのみ魚の歯がはめ込んであった。

この「双頭の人魚のミイラ」ばかりでなく、現在残っている「人魚のミイラ」の多くは、猿の上半身と魚の胴体をつなぎ合わせて作ったものだとされている。

 国学者・喜多村筠庭の随筆『きゝのまにまに』には、奇怪な作り物を製作していた宇禰次という細工人が、浅草寺奥山に五尺ばかりの大きさの人魚の見世物を出したが、これは獣や魚の皮をつなぎ合わせて作ったものだった、ということが書かれている。

つまり「人魚のミイラ」を作る細工人がいたということが、はっきりわかっているのである。

 尾張藩士・高力猿猴庵(こうりきえんこうあん)の日記『猿猴庵日記』の文政2年(1819)8月の条には、このころ、名古屋の末広町で人魚の見世物があったことが書かれている。

実は、この年の夏には「コロリ」という疫病(コレラと混同されることが多いが、赤痢だったようである。)の流行があり、それを避けるための御札として人魚の絵が売られていた。

人魚の見世物もまた、「コロリ」除けに霊験あらたかとして喧伝されたものと思われるが、これを見た猿猴庵は、はっきりと「人魚の作りもの」と記しており、しかも「よき細工なり」と感想を述べている。

江戸時代の人々は、作り物と分かった上で、そうした「人魚のミイラ」などをたのしんでいたのかもしれない。

 

 

 

 

 人魚の絵が、「コロリ」(赤痢)よけの御札として江戸時代売られていたとは!

しかも、文政2年(1819)に人魚の見世物が出ていたというのにも驚きます。

 アマビエより早いでしょ!

 御札より、実物のほうが御利益がありそうですから、お金があった大名は購入できたのでしょうか。

今、話題の「アマビエ」の妖怪絵が話題になっています。弘化3年(1846)、肥後の国(現在の熊本県)で、ある日の夜、海中に光る生物があらわれ、役人が赴き、様子をうかがった。するとその半人半魚の生き物は、「われこそは、アマビエと申す者なり、当年より6年の間は、諸国で豊作が続く。だが、疫病もはやる。だから我の姿を絵にして描き写し、人々に早々に見せよ。」と言って、海の中に去って行ったという。

この「アマエビ」、半人半魚という点で、人魚ですね。

日本でのコレラ流行は、中国からアメリカの船により運ばれ流行したのが安政5年(1858)です。

さすが、薩摩藩主島津重豪(薩摩藩の8代当主)の息子、当時流行の「アマビエ」の絵ではなく、実物を手に入れていたのですね。

八戸藩は、戊辰戦争の難局をうまく乗り切り、結局一度も戦闘に参加することなく八戸藩の存続に成功させてます。

南部信順は、明治2年八戸藩知事、明治4年の廃藩置県により知藩事職を辞任、同年に家督を長男栄信に譲り、明治5年、59歳で死去。

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