東海道四谷怪談の戸板返しの仕掛け
戸板返しの仕掛け
東海道四谷怪談で有名な「戸板返し」の仕掛け
これは、隠亡堀(おんぼうぼり)で釣りをしている伊右衛門のもとに、お岩と小仏小平(伊右衛門に殺された民屋家の小者)の死体を表裏に打ち付けた戸板が流れつき、ムシロをめくるとお岩の亡霊が恨み言を述べ、慌てて戸板を裏返すと今度は小平の亡霊が現れる、という場面に用いられたもので、戸板の表にはお岩の体、裏側には小平の体が作り物でとりつけられており、役者は顔の部分に開いた穴から顔を出して、お岩の幽霊と小平の幽霊の二役を早変わりで演じたのであった。
さらに、上演をかさねるたびに、お岩の亡霊が燃え上がる提灯のなかからあらわれる「提灯抜け」や、人間が仏壇のなかに引きずり込まれる「仏壇返し」など、より大掛かりな道具を用いる仕掛けが取り入れられ、『東海道四谷怪談』は怪談狂言の代名詞ともいうべき作品になっていったのである。
この怪談狂言にみられるような、仕掛けを用いて妖怪や幽霊を登場させる演出は、話芸である落語のなかにも取り入れられた。それが初代林家正蔵の創始した「怪談噺」であった。
初代 林家正蔵の怪談噺
怪談噺は、怪談ものの話しの最後に妖怪や幽霊に扮した人間や人形を登場させて、聴衆を驚かせたところで暗転しおわるというもので「化物噺」と呼ばれた。
し
正蔵は文化14年(1817)正月に西両国の寄席を取得して興行をはじめるが、怪談噺をはじたのはその少し前とされている。
正蔵は手先が器用で、自分でさまざまな小道具を製作することもあり、一説には『東海道四谷怪談』の舞台の仕掛けを手伝ったこともあったとされている。だからこそ、仕掛けを用いた怪談噺を思いついたのだと思われる。
もっとも、正蔵の怪談噺には、仕掛けをつくる専門の細工師がちゃんといた。
両国の回向院前の泉目吉がそのひとであった。泉目吉というのは通称で、泉屋吉兵衛が本来の名前である。
「妖怪手品」と歌舞伎の「東海道四谷怪談」誕生まで
「妖怪手品」とは、怪しく見える現象には必ず何かの「種」がある、としてその神秘性を無化したうえで、人の手で、人の手で自在にそれを再現するという特異なわざであった。
そして、この怪異の否定とその人為的な再現は、『放下筌』の序文にも記されているように、「人は万物の霊長」という人間中心主義的な認識に基づくものであった。
「妖怪は存在しないが、人が作ったの(フィクション)として楽しもう」というこの「妖怪手品」に見られる姿勢は、すべての「妖怪娯楽」に通じるものであったといえる。
「妖怪手品」はいわば素人の座敷芸としておこなわれものであったが、19世紀にはいると、仕掛けを用いて妖怪・幽霊を出現させることがお金をとってみせる芸能へと発展する。
まずは享和3年(1803)に都屋都楽(みやこや とらく)によって創始された「写し絵」がその一つである。
写し絵は、「風呂」とよばれる木製の幻灯器で、種板というガラス板に描かれていた絵を紙のスクリーンに映し出す。現在の映画とは異なり、スクリーンの裏側がら映写する方式で、「風呂」も固定式ではなく、演者が手にもって映写していた。
これは「動き」を表現するためで、複数の「風呂」を用いてそれぞれ別のキャラクターを演ずることもあった。
種板にも「動き」を表現する仕掛けがあつた。たいていは、絵の描かれたガラス板に、もう一枚のスライド式で別のガラス板が重なるようにし、それを動かすことによって映像に変化を与えるというものであった。
このような写し絵の題材として、変幻自在な妖怪や幽霊が登場する怪談ものは、まさにうってつけであった。
江戸時代の人々は、現代の人々がホラー映画を見に行くように写し絵を見に行き、暗闇のなかに映し出される妖怪や幽霊の姿に恐怖し、かつたのしんでいたのであろう。
移し絵が創始された翌年、文化元年(1804)には、大がかりな仕掛けを用いて恐怖を演出する歌舞伎「怪談狂言」の最初の作品とさめる『天竺徳兵衛韓噺 てんじくとくべいいこくばなし』が上演されている。、大きな蝦蟇の背中が割れて、そのなかから徳兵衛があらわれたり、舞台の前の池に飛び込んだ役者がその直後に花道から別の姿になって登場する「水中早替り」など、それまでにない斬新な仕掛けがいくつも盛り込まれ、大当たりをとった。
作者の四世鶴屋南北は、当時一人前の立作者となって間もないころで、主役を務めた初代尾上松助(のちに松緑)も60歳という高齢で引退間際の役者であった。
そもそもこの作品が上演されたのは客入りの少ない夏場であり、明らかに大きな期待を込められて送り出された作品ではなかった。しかし、だからこそ南北や松助らは起死回生を狙って大胆な挑戦を試みたのであろう。結果的にこの大当たりにより、以後、『彩入御草子 いろえいりおとぎぞうし』『阿国御前化粧鏡 おくにごぜんけしょうのすがたみ』など、南北、松助のコンビで次々と会談狂言を送り出し、ヒットを飛ばす。
そして、南北が松助の養子であった三世尾上菊五郎と組んで文政8年(1825)に初演した『東海道四谷怪談』が、怪談狂言の最大のヒット作となる。「忠臣蔵」の世界に舞台を借りつつ、夫である民谷伊右衛門がに裏切られて死んだお岩の怨霊が、伊右衛門につならる者たちに次々と祟る幽霊譚で、壮絶な恐怖を演出する数多くの斬新な仕掛けが盛り込まれていた。