石燕の妖怪図鑑
妖怪図鑑の萌芽
たくさんの妖怪つまり鬼たちが群行したり歌舞をたのしんでいる様子を描いた百鬼夜行絵巻は、多種多様な妖怪がえがかれているという点では、妖怪図鑑的な意味合いをもっているといえる。
しかしながら、妖怪一体ずつを前後の妖怪たちとの物語的な関連を断ち切ったかたちで羅列し名称や属性を記しているわけではないので、妖怪図鑑の萌芽とはみなせても、妖怪図鑑そのもののはじまりとみなすわけにはいかない。
現在確認できるもっとも古い年号をもつ妖怪図鑑は、元文2年(1737)に狩野元信筆とする絵巻を佐脇嵩之が模写したという識語をもつ、福岡市博物館所蔵の『百怪図巻』である。
佐脇自身が摸本であると記していることから判断すると、その原本にあたる作品がそれ以前に制作されていたわけであるが、その祖本が室町時代の人である狩野元信によって描かれたものであるかどうか、言い換えれば、妖怪図鑑の始りを中世にまで遡ることができるかどうかは定かでない。
留意したいのは、佐脇は英一蝶の弟子にあたる絵師だということである。
英一蝶も妖怪絵巻や妖怪図鑑の模写を行っているので、妖怪図鑑の流布にあたって、この絵師グループの果たした役割は大きいものがあったと思われる。
たとえば、国際日本文化研究センター所蔵の英一蝶の落款をもつ『妖怪絵巻』は、真珠庵本系統の『百鬼夜行絵巻』の図柄と兵庫県立歴史博物館所蔵の『百器夜行絵巻』の図柄を合わせた絵巻である。
妖怪図鑑の登場
江戸時代後期から明治前期にかけて妖怪画・妖怪文化は、未曽有の隆盛を迎えた。
この時期の妖怪文化の特徴は、妖怪を恐怖の対象としてではなく娯楽の対象として把握し、それを享受し始めたことである。
妖怪は人間がその想像力を駆使して造形するものとなつたのであった。
そのような娯楽の対象としての妖怪画の浸透において決定的ともいうべき役割をはたしたのが、鳥山石燕(とりやま せきえん)の『画図百鬼夜行』シリーズの刊行であった。
このシリーズの一作目にあたる『画図百鬼夜行』は、安永五年(一七七六)に刊行され、これが好評を博したらしく、その続編の『今昔画図続百鬼』が安永八年(一七七九)、その続編の『今昔画図続百鬼拾遺』が安永十年(一七八一)に、さらに、『百器徒然袋』が天明四年(一七八四)に、という具合に次々に刊行される。
『画図百鬼夜行』の体裁は木版単色刷り、半紙形の綴り本で、一頁ごとに一体の妖怪の絵とその名称が付されて、続編の『今昔画図続百鬼』移行では、名称とともに簡単な解説めいた文言も記されるようになる。
これは明らかに妖怪図鑑として作成されたことを物語っている。
ここで「百鬼」という語で意味されているのは、角を持った筋骨たくましい鬼のことではなく、さまざまな姿かたちをした異形の者としての「百鬼」つまりは「化け者・妖怪」のことである。
石燕の妖怪図鑑シリーズ
妖怪図鑑の登場の背景には、実際に怪談を語り合ってたのしむ「百物語怪談会」を基礎にした『諸国百物語』(一六七七)をはじめとする各種の挿絵付きの「百物語怪談集」がもてはやされ、さらにはそれに登場する妖怪たちの解説書にあたるような『古今百物語評判』(一六八六年)まで刊行されていたことや、赤本、黒本、青本、黄表紙などと呼ばれる江戸時代の通俗的な絵入の読み物いわゆる草双紙でも妖怪話が好まれたという事情があった。
ようするに、石燕の妖怪図鑑シリーズは、こうした江戸時代前期において形成された怪談・妖怪話の愛好者たちを念頭におきつつ、室町時代から江戸時代にかけて制作された妖怪絵巻や妖怪絵本(奈良絵本)の伝統を吸収するかたちで制作されたものであったわけである。
石燕は『画図百鬼夜行』の巻末において「もろこしに山海経吾朝に元信の百鬼夜行あれば、予これに学てつたなくも紙筆を汚す」と記している。
もちろん、ここで言及されている元信とは狩野元信のことで、当時、すでに狩野元信が描いたという妖怪図鑑風の模写絵巻が流布していた。
石燕はそれに刺激されて、自分なりの妖怪図鑑を冊子形式で出そうとしたのであった。
絵本百物語 (全編多色刷りの妖怪図鑑)
妖怪図鑑に関するその後の変化として指摘しておくべきは、錦絵の影響である。
石燕の『画図百鬼夜行』シリーズはすべて単色刷りであった。
同時代に多色刷り錦絵の技法が開発され、一枚刷りの美人画浮世絵に用いられていたが、経費の面からいって、まだ多数の絵を収録する冊子本すべてを多色刷りにするにはいたらなかったようである。
おそらく、当時の妖怪文化の愛好家たちは、全編多色刷りの妖怪図鑑や妖怪絵本を待望していたことであろう。
それに応えるかたちで登場したのが、『絵本百物語』(一八四一年)であった。
この図鑑は全編多色刷りで、絵は竹原泉斎、解説文は桃山人が担当した。この本を別名『桃山人夜話』と称するのは、解説を桃山人が書いていることによっている。