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歴史ネタ帖

織田信長の死

織田信長の死

18歳で織田家を継いだ信長は、それから30年の間、戦いに明け暮れる日々を送った。そして、ときには行く手をはばむ者を徹底的に破壊筑紫、またあるときは、進んであたらしいものを取り入れながら、新しい時代を築こうとつとめた。しかし、その信長にも、最後の日がきた。1582年5月の終わり、信長は安土を出発して京都の本能寺に入った。このころ信長は、中国地方の平定に乗り出していたが、その先駆けとして出陣した豊臣秀吉は、備中高松城の攻略に手間取っていた。名将清水宗治が指揮する、手強い抵抗に出会ったのである。しかもその背景には、毛利氏の大軍が控えている。秀吉は、長期戦を覚悟して高松城を水攻めにする戦術をとるとともに、信長の出陣も要請した。信長はそれに応えて、明智光秀に先鋒を命ずるとともに、自らも先ず本能寺まで出かけてきたのである。しかしその光秀が、信長を裏切った。

彼は、命令を受けて13000の軍をととのえると、備中へ向かうはずの軍を本能寺に向けた。そして6月2日の明け方、「敵は本能寺にあり」と信長を襲ったのである。このころ光秀も、天下盗りの野望をいだいていたのかもしれない。しかも信長のもとにいたのでは、その望みをたっすることはできない。幸いなことに、いま信長の近辺には、有力な武将はついていない。信長を倒してその跡を継ぐには、絶好のチャンスなのである。この判断が、本能寺奇襲の挙になってあらわれたのだとも思われる。このとき本能寺にあって信長を守る者は、百名たらずの人数であった。それでも信長は、近習の森蘭丸らとともに、弓をひき槍を振るって奮戦した。

しかし、多勢に無勢ではとうてい勝ち目はない。ついに信長は、燃え上がる建物の中で腹を切り、自らその命を絶ったのである。

 

明智光秀

『フロイス日本史』中には、 「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」
「裏切りや密会を好む」
「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人たちには、人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」
「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主」

実際に、本能寺の変の後、光秀の進軍を阻むために安土への道中にある瀬田の唐橋が切断された際、「瀬の深さと流れる水足が極めて速いことから、それ(修理)は不可能な事と見られていた」にも関わらず、「明智の優秀な技能と配慮により、ただちに修理復旧された」という。

「主君とその恩恵を利することをわきまえていた」「自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた」「誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関してはいささかもこれに逆らうことがないよう心がけ」「彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らがそうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」
「刑を科するに残酷」「独裁的でもあった」「えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」
「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」

等の光秀評がある。

『フロイス日本史』での信長評が世間で広く信用されているのに対し、光秀評は無視されているとし、光秀に対する評価を見直すべきではという意見もある。

 

賤ケ岳の戦い

 信長死後の秀吉の動きは、まことにめざましかった。しかし、この動きは、まわりの人々に快く受け入れられていたわけではない。信長の重臣であり、武名の高かった柴田勝家のように、「あの成り上がり者めが」と、憎しみの目を向ける者もいる。信長の息子信雄(のぶかつ)・信孝には、「自分こそ跡継ぎに・・・」という望みを、秀吉にはばなれたうらみがある。その一方には、信長と同盟を結んで、数々の戦いに協力しあってきた徳川家康のような大名もいた。彼らにとっても、秀吉の動きは目さわりであったにちがいない。秀吉も、このような周囲の様子を知らないわけではなかった。そして、行く手をはばむ者を振り払うための手を、次々にうっていた。その最初が、柴田勝家との間にはじまった合戦である。

勝家は、越前・北の庄(福井県福井市)を本拠にしていたのであるが、「猿めにひとあわふかせてやる!」とばかりに、大軍を率いて京都をめざした。秀吉は、これを迎えうって、賤ケ岳(しずがたけ)(滋賀県)などで勝家の軍をうちやぶるとともに、さらに本拠の北の庄に追い詰めた。勝家は、ここで妻の小谷の方(お市の方)をはじめ一族の子女らとともに自殺したのである。柴田勝家との戦いの間に、織田信孝が美濃(岐阜県)で秀吉打倒の兵をあげたが、秀吉はこの信孝も簡単に平らげている。

 

賤ヶ岳の七本槍

賤ヶ岳の戦いでは、秀吉の側近近く仕えていた七人の若者が、大活躍した。福島正則、脇坂安治、加藤嘉明、加藤清正、平野長泰、片桐且元、糟屋武則である。彼らを静か岳の七本槍といっている。彼らはこの後、しだいに取り立てられ、後にいずれも名のある大名になった。

 

小牧・長久手の戦い

一方、信孝の兄信雄は、徳川家康と手を結んでいた。信雄はまだ「自分こそ天下人・・・」という望みを捨てていない。また、家康にも、「せっかく信長と戦ってきたのに、秀吉ごとき成り上がり者に天下をまかせられるか」という思いが強い。そこで、信雄からの申しでを快く受け入れて、協力することにした。こうして、柴田勝家滅亡の次の年の1584年(天正12)には、秀吉と信雄・家康連合軍との間に戦いが始まった。これを戦場となった地名をとって、小牧・長久手の戦いと呼んでいる。

ただこの戦いは、秀吉方の戦況不利のうちに、決定的な勝敗の結末がつかないまま終わってしまった。織田信雄が秀吉のはかりごとにはまって、独自に講和の取り決めを結んだことがそのおもな原因である。それだけに秀吉にとって、徳川家康の存在は依然として不気味であった。なんとかして家康をおさえたいと考えた秀吉は、まず妹の朝日姫を家康の妻にすることを思いついた。このとき家康は45歳、朝日姫は41歳。しかも朝日姫は、すでに佐治日向守の妻になっていた。それを離婚させてまで、家康の妻にしようとしたのである。

1586年、この結婚を招致させた秀吉は、同じ年、「大事な母を人質に出すのか」「もしかすると殺されるかも・・・」という声をすべておしのけて、74歳の母・大政所に家康のところへ挨拶に行ってもらった。このようにされてみると、家康も悪い気がしない。「秀吉は、わしのことがよほど気になるらしいとみえる」と満足もした。こうして家康の心をやわらげた秀吉は、やがて、「家康は、わが家臣である」という扱いをするようになっていったのである。

 

 

 

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