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歴史ネタ帖

天下人への道  

天下人への道

本能寺の変、そして主君信長の死。それは秀吉が「天下人」への第一歩を踏み出すきっかけになった事件であった。このとき秀吉は、備中・高松城攻撃の最中であったのだが、信長の死の知らせがあったとき、家臣黒田如水(孝高 よしたか)が、「申し上げにくいことですが、御主君(秀吉)はいま、信長さのの死をたいへん悲しんでいらっしゃるように見えますが、内心では、まことにめでたいことと考えていらっしゃるのではないでしようか。花のさかりというのは、そのときがこなければ見られないものですが、いまこそ花の最も美しい季節。このたびの光秀との戦いは、花見はじめともいえるものでしょう。」と言うのに対して秀吉は、思わすにやりと笑ったという話が伝えられている。おそらく秀吉は、このときはじめて天下盗りの決意を固めたのではないだろうか。秀吉は、ただちに行動を起こした。さっそく毛利氏と講和を結んで京都に引き返すと、山崎の戦いで明智光秀を打ち破り、主君の弔い合戦はまず成功した。そして、その三年後には関白、さらに五年後にはついに天下を統一して、名実ともに日本一の実力者にもでのし上がっていくのである。

 

出生をめぐる話

織田信長の死後、その志を継いで天下を統一したのは、豊臣秀吉である。その豊臣秀吉は、天下を治めたあと、そば近く仕えていた大村由己に命じて『関白任官記』という本を書かせた。これには、秀吉の出生について次のように記されている。

「もともと秀吉の祖父は、萩中納言という公家であった。しかし、この祖父は同僚の告げ口で都を追われ、尾張国(愛知県)飛保の村雲というところにわび住まいしていた。この中納言に一人の娘があった。父の円弧で幼い頃都にのぼり、宮仕えをしていたが、三年ばかりして村雲に帰り、男の子を生んだ。これが秀吉である」この記事は、「秀吉は都のとうとい身分の人の子である」ということをなんとなくにおわせたものである。

もう一つ、秀吉の出生についての言い伝えを紹介しておこう。「わが慈母は、われを身ごもったときに、めでたい夢を見た。それは夜のことであったが、日光が室内にみちあふれ、まるで昼のようであったという。早速、易者にうらなわせたところ、「この子はおとなになると、徳を四海にかがやかし、威を八方に広げる」という答えであった」これは、1593年(文禄2)に秀吉が、高山国(台湾)に送った国書の一節なのである。

その一方、秀吉の出生などについて記した『太閤素性記』という本には、「父の弥右衛門は、はじめ、織田信秀(信長の父)の鉄砲足軽であったが、戦場で受けた傷がもとで、身体が不自由になりり、中村に住みついて百姓になった」とある。しかも父は、秀吉が9歳になったときに死んだという。

この記述、つまり秀吉は、尾張国中村の貧しい農家に生まれたというが、ほぼ正しいことのようなのである。それなのに秀吉は、なぜ、先に記したようなことを書かせたり言ったりしたのだろうか。まず考えられるのは、秀吉は、身分の低い、貧しい生まれに、いつもひけめを感じていたからではないか、ということである。だからこそ、「自分の生まれは、立派なのだ」「自分はもともと、身分の高い生まれだったのだ」と、天下をとったあと、ことさらに主張したのであろう。

 

ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている。また、秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという。

 

 

山崎の戦い

主君信長の弔い合戦は、山崎(京都府乙訓郡)で行われた。このとき明智光秀の軍は16000、秀吉の軍は26000といわれている。実は光秀は、もっと多くの大名が力を貸してくれるものと思っていたらしい。しかし、光秀からの使いを受けたのに、協力を断る大名が少なくなかった。丹後国(京都府)の大名細川幽斎・忠興の父子は、光秀の娘、玉を嫁がしているという関係にあったのに、光秀の申し出を断っている。光秀が最も期待し、秀吉の背後をおびやかしてくめるように望んでいた毛利氏も、ついに腰をあげなかった。一方、秀吉方には、「なき主君のあだを討つ」という大義名分がある。味方する者も多く、士気も高い。こうして山崎の戦いは、まずか一日で秀吉方の勝利に終わり、光秀は領地の坂本(滋賀県)に向かって逃れる途中、百姓のつくりだした竹槍にさされて死んだ。本能寺の変があってから、わずか10日目のことであった。世の人々は、「信長を討って、われこそが天下を」と勇んだ光秀のはかない夢の日々を、「光秀の三日天下」と呼んだ。

『スーパー日本史』古川清行著より(要約一部加筆)

※ 山崎の戦い
秀吉が明智光秀を破った山崎の戦いは、現代に二つの言葉をのこしている。

その一つは「天王山」である。

勝負ごとで、それに勝てば全体の勝利をおさめることができる局面のことを、「天王山」といっている。これは、山崎の西にある天王山という山の占領を両軍が争い、秀吉軍が先に占拠したことにより、戦いに勝ったことからきている。合戦場を見下ろす、戦略上の要地だったのである。

もう一つは「洞が峠」という言葉である。

これは、山崎の戦いの前、大和を領地にしていた筒井順慶が、洞が峠まで出陣し、そこで両軍の勝敗の帰趨を見極めようとしたことに由来する。筒井順慶は、明智光秀との縁も深く、当然明智光秀に味方すると考えられていた。しかし、出陣した順慶は、明智方にはつかず、かといって秀吉方にもつかず、模様を見ていたのである。そこで日和見のことを「洞が峠」というようになった。

 

 

清州会議

山崎の戦いから半月余りの後、尾張の清州城に、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興ら信長の重臣たちが集まった。議題は信長の後継者の決定や遺領の分配にかかわることであり、もちろん山崎の戦いの主役であった秀吉も、席を連ねていた。この会議では、柴田勝家と豊臣秀吉の意見が対立した。

「信長公の三男信孝殿こそ、跡継ぎにふさわしい」と勝家はいう。

これに対して秀吉は「信長公の長男信忠殿の子三法師さまを跡継ぎに・・・」といいはった。

三法師は、このときわずか三歳。秀吉にしてみれば、この三法師を跡継ぎにすれば、自分がその後見人になって、思うままのことができると考えたのだろう。それに、家督は長男から長男へ継がれるというのが、当時の習慣でもあった。この意味でも秀吉の言い分に分があったのである。こうして会議の結果は、山崎の戦いで手柄をたてた秀吉のいうとおりになった。秀吉はこの後、信長の葬儀を盛大に行ったが、このときも、信長の棺のすぐあとについて太刀を捧げ、「信長のあとは秀吉が中心になる」という思いを、人々に強く印象づけたという。

『スーパー日本史』古川清行著より(要約一部加筆)

 

≪現在の清州城跡について≫

現在、城跡は開発によって大部分は消失し、さらに東海道本線と東海道新幹線に分断されており、現在は本丸土塁の一部が残るのみである。東海道本線以南の城跡(清洲公園)に信長の銅像が、以北の城跡(清洲古城跡公園)に清洲城跡顕彰碑がある。なお、現在城址のすぐ横を流れる五条川の護岸工事の際に発掘された石垣の一部が、公園内に復元されている。

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