公武合体派
公武合体派
攘夷親征論が高まり、大和行幸の詔勅がはっせられていたとき、これとは違った考えのもとに重要な動きをす
る人々があった。攘夷という点では共通するところもあるのだが、「幕府を倒すというようなはげしいことをい
わずに、朝廷(公)と幕府(武)とが一体となり、これをもとにして幕府の政治をたてなおすこと。そのうえで
外国にあたるようにしたほうがよい」という考えをもち、そのために活動しようとした人々が、それである。
公卿のなかでは、中川宮・近衛忠煕(ただひろ)父子など。さらに会津藩は藩主・松平容保を中心に公武合体
を進めようとしていたし、薩摩藩は藩主の父・島津久光がこの考えを強く持ち、その実現のために努力をしよう
としていた。
ことに島津久光は、大勢の家臣をしたがえて江戸に出かけ、前に安政の大獄でしりぞけられた一橋慶喜を将軍
補佐として復活させることや、松平慶永を大老にすることなどを強く申し入れている。また、その途中で京都に
よったときには、薩摩藩の武士で攘夷親征を強くとなえている者たちを、伏見(京都府)の寺田屋で切り殺させ
るような事件(寺田屋騒動)も起こした。
がんこな攘夷論者であった孝明天皇も、幕府が攘夷を実行しないことには不満をもちながらも、だからといっ
て、ただちに幕府を討て、とかんがえていたわれけはない。むしろ、「攘夷は、幕府を中心に行わせたい。1861
(文久1)には、多くの反対意見を押し切って、皇妹(こうまい)・和宮(かずのみや)を家茂(いえもち)にとつがせているが、これもその考えのの表れの一つといえる。
もちろん、幕府の中にも公武合体論をとなえる者が多かった。一橋慶喜・松平慶永などは、その中心になった人々である。このような公武合体論者たちにとって、真木和泉や長州藩を中心にした「攘夷親征」の企ては、危険このうえもないものであった。