長州藩の動き
長州藩の動き
尊攘の動きを強く支えていたのは、長州藩であった。とはいっても長州藩は、はじめから尊攘の旗印を明ら
かにしていたわけではない。
混乱する政情の中で、長州藩がその主導権を握ろうとしたとき、まず掲げたのは、「航海遠略策」であった。これは長州藩で直目付の地位にあり、英才の誉れ高かった長井雅楽時庸(ながい うたときつね)が建言したもので、
「外国と結んだ条約をすてて攘夷をせよというのはよくない。それよりも、海軍を充実して世界に範だし、貿易も進んで行うようにせよ。そうすれば、外国の圧力などはね返すことができる」というかんがえである。
しかも」この考えを朝廷にしめし、幕府がこれを実行するように命令せよ」とも主張した。
朝廷の中にも賛成する者があったし、幕府も異論はなかつたのだが、しかし、この意見は結局は実現しなかった。というのは、桂小五郎・久坂玄端ら半内の攘夷論者をはじめ、他の藩の者たちからも激しく反対されたからである。そのため藩論は一変して、「破約攘夷」でまとまることになつてしまった。これは、「いまの条約は、幕府が朝廷に断りなく結んでしまったものなのだから、戦いを覚悟したうえで、破り捨てなけ
ればならない」とうものである。
このころ久坂玄端は、土佐の武市半平太にあてて次のような手紙を書いている。
「諸侯も公卿もだめ。いまは全国の志士を集めて、われら同志でやるほかない。失敬ではあるが、きみの藩もぼくの藩も、それが大義のためらな滅亡してもかま
わないのです。」
つまり長州藩は、このような急進的な攘夷論者によってリードされ、攘夷親政論が主流になっていったのである。