大和行幸の詔勅と八月十八日の政変
大和行幸の詔勅
8月13日には、大和行幸の詔勅が発せられた。これは、孝明天皇みずから大和に行幸し、神武天皇の山陵や
春日神社に参拝するとともに、ここで御親征の軍議を固める。そのうえで伊勢神宮に参拝するというもので、い
わば倒幕の幕開けをしようとするものであった。
さらに真木和泉をはじめ、長州藩の桂小五郎・日坂玄瑞、もと福岡藩士であった平野国臣ら学習院(公家の教
育機関)出仕を命ぜられた者たちは、大和行幸の実を挙げるために、・関白・大臣以下の任務をあきらかにすること。
・在京の大名は、必ず行幸に供奉すること。
・諸藩は、この行幸や軍議に必要な費用10万両を調達
すること、などを決めている。
西国の夕飯として発言力を強めていた長州藩は、この攘夷親政論の強力な支持者であった。長州藩は尊王攘夷
の旗印のもとに幕府を倒し、そのあとにつくられる政府の中心になろうとしていたのである。
※長州藩と薩摩藩
幕末の頃、長州藩と薩摩藩の力が際立っていた。江戸時代の中頃から、幕府も各藩も財政が苦しくなり、何かしようにも費用がなくて困るような状態であったのだが、この両藩は、次のような理由で財政にゆとりを持ち、藩内の政治を固めていたのである。
その一つは、産業をさかんにすることであった。薩摩藩では、琉球(沖縄)産の砂糖を藩の専売品とし、藩の手で大阪などで売りさばいて大きな利益をあげた。長州藩では、新田開発に力を入れて米の増収を図り、正式には36万石の藩でありながら、91万石もの取れ高があるようになったといわれる。
もう一つは、身分が低くても才能のある者を取り立てたことである。藩の政治をしっかりさせていくためには、才能のある者を取り立ててその力を振るわせることが大切であった。薩摩藩では西郷吉之助(隆盛)・大久保一蔵(利通)、長州藩では桂小五郎(木戸孝允)・高杉晋作らが藩の政治に加わって活躍するようになった。
大和行幸の詔勅
尊攘派による倒幕計画の一つ。孝明天皇による攘夷祈願のため神武陵参拝などを企画したもので、行幸の詔も発せられたが、公武合体派はこれを阻止しようとして、文久3年8月18日の政変を起こした。
八月十八日の政変
1863年(文久3)8月18日。つまり真木和泉が、攘夷親征実現の到来を喜ぶ日記をしるしてから6日後のこと。そして、大和行幸の詔勅がせられて5日後のこと。京都御所のあたりは、午前一時ころから、あわただしい空気につつまれていた。
中川宮をはじめ、前関白近衛忠煕父子、右大臣二条斉敬(なりゆき)などのおもだった公卿が、次々に御所の中に入っていく。続いて、会津・薩摩などの藩兵たちがいかめしく武装して入門、御所の九の門をぴったりと閉ざす。こうして午前四時ころには、京都御所は猫一匹はいれぬほどに固く警備されてしまったのである。
この警備の前に、長州藩士の入門は阻止された。
「許しのない者は、一切いれてはならないというご命令である。ことに尊攘をとなえる公卿、その後押しをする長州藩の者どもは、天皇のご意見にさからう敵であるとのことだ。早く引きあげよ」というのである。
しかも、孝明天皇を中心とした御前会議で決められたのは、
・大和行幸は延期する。
・尊攘急進派の参朝は禁止する。
・長州藩による堺町門警衛を解任する。
というような、先に記したような動きとはまったく違うものであった。
さらに、「長州藩の兵は国元に引きあげよ」という命もくだり、翌19日未明には、三条実美はじめ尊攘派といわれた七人の公卿とともに、国元に帰らざるをえなくなった。真木和泉らもこれに従ったのでああるが、折しも小雨が降る中の敗退であり、前日までとはまったく違った展開に、限りない哀愁と痛憤を味わっていたにがいない。
薩摩、長州両藩は、朝廷を擁して自藩の権力拡大を競っていた。薩摩藩が幕府と協力して公武合体政策を推進しようとしたのに対して、長州藩は在京の尊攘志士たちと結んで攘夷親征の政策を推進し、文久3年(1863)8月28日を期し攘夷親征が挙行されることとなった。これをみた薩摩藩は、京都守護職松平容保や朝廷内佐幕派公卿と結んで8月18日兵力をもって御所を包囲し、長州藩や尊王攘夷派公卿を追放した。(→七卿落)。その結果、攘夷親征は中止され、公武合体派の勢力が強くなった。
☆彡 ああ、、、恐ろしい権力闘争です。和宮の降嫁の経緯がわかりますね。有栖川宮の婚約者がいたのに、高貴な方の宿命ですか。