南九州の名門・島津氏
南九州の名門・島津氏
島津氏はもと惟宗氏といったが、平安時代末期に近衛家領島津荘の役人になってから、島津氏を名乗るようになったといわれている。鎌倉時代になると、源頼朝から薩摩・大隅・日向の三カ国の守護に任ぜられ、それ以来、この地域一帯に勢いを振るうようになった。しかも、鎌倉や京都から遠く離れた辺境にあったこともあって、中央の政争に巻き込まれることもなく、長くその地位を保ってきたのであった。しかし島津宗家の地位は、必ずしも確立していたわけではなかった。南九州いったいに分布した一族の者たちが、長い間にそれぞれ独立して大名化していたため、宗家の威令が行き届くというわけにはいかなかったのである。
この状態をあらため、宗家を中心とする強固な体制をつくろうとしたのは、1526年に家督を継いだ15代貴久であった。彼は、一族の者や有力な豪族たちと、時には和合し、時には力ずくで対決するなどして、戦国大名としての地位を確立することに努めた。さらにその子義久の代になると、勢いを北に広げ、九州一帯をその勢力下におさめようとするまでになった。先に記した竜蔵寺氏との戦いも、この時に起こったものである。
1586年、義久は豊後の大友氏も攻め、これを打ち破った。
こうして、島津氏の野望はほぼ達成された。しかし、まもなく豊臣秀吉によって征服されることになる。
島津氏初代は“御落胤” ~頼朝の墓に「丸に十の字」~
建保元年(1223)7月、幕府は惟宗忠久を、現在の鹿児島県から宮崎県におよぶ、薩摩国島津荘の守護職に復帰させた。この忠久の母は比企能員(ひき よしかず)の妹・丹後局で、ひそかに源頼朝の寵愛を受けたが、正妻・北条政子の嫉妬を恐れて摂津国に逃れた。そして住吉神社の境内で、夜間、狐火に守られて産んだのが忠久だと伝える。「島津氏系図」には源頼朝庶子と明記されており、忠久は頼朝の落胤というわけである。文治元年(1185)、薩摩・大隅・日向の三カ国の守護に任じられたのも、頼朝の使い意向に沿ったものだつたのかもしれない。
しかし、建仁3年(1203)に比企能員が北条氏に討たれるという事件が起こると、忠久もそれに連座して、三カ国の守護を解任されてしまった。それがこのたび、ようやく薩摩国守護だけは回復できたのである。
その後、忠久の子孫は南九州の大勢力として連綿と続き、江戸時代には薩摩75万石もの大大名になった。鎌倉市にある源頼朝の墓は、遠祖というゆかりで、薩摩8代藩主・島津重豪(しげひで)が建てたもの。台石に島津氏の「丸に十の字」の紋が刻まれているのは、そのためである。