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  1. 猪苗代城の妖怪・亀姫
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歴史ネタ帖

天下統一の完成

天下統一の完成

大坂築城以後も、秀吉による天下統一の歩みは、順調そのものであった。暗いも、正二位内大臣従一位関白(1585年・49歳)・太政大臣(1586年・50歳)となり、天皇から豊臣の姓をたまわって、豊臣秀吉と改名もしている。一方、1587年には九州を平定し、1590年には小田原の北条氏を滅ぼすとともに、欧州の伊達氏も従えた。すでにこのころ、さすがの徳川家康も、その地位は秀吉にぐんと引き離されてしまっていた。

こうして、秀吉の望みであった天下統一が完成したのであるが、その間に行われたこととして、忘れることのできない出来事がある。それは、検地・刀狩りである。、

※聚楽第

1586年、つまり大阪城の築城がほぼおわった頃、秀吉は京都に聚楽第をつくらせた。このころ京都にいた宣教師は、「聚楽第の工事では、1日6万人ほどの人夫が働いている。秀吉は、1か月のうち10日から15日は大阪城を仕上げる仕事の監督に、残りの10日から15日は聚楽第工事の見回りをしている」という意味の記録を残している。秀吉は1588年に、完成した聚楽第に後陽成天皇を迎えた。これに先立って秀吉は、行幸のために必要な膨大な費用を、天皇に差し上げている。徳川家康をはじめ、諸大名に官位を与えてもいる。天皇を迎えたとき、家康や前田利家など29人の有力な大名に、天皇を尊び、関白(秀吉)の命令に従うことを誓わせた。これは、自分の地位をいっそう高め「秀吉こそ天下人なのだ」ということを諸大名に認めさせたいという、秀吉の気持ちのあらわれであったともいえる。

聚楽第(じゅらくだい、-てい)は、竣工して8年後に取り壊されたため構造などについては不明な点が多い。聚楽第があったとされる地域一帯は民家が密集していて発掘調査ができない。しかし1992年(平成4年)に、建て替え工事が行われていた西陣公共職業安定所(ハローワーク)の敷地地中から聚楽第本丸東堀跡が発見され、その埋め戻し土の中から桃山期の金箔瓦約600点が出土した。いずれも本丸側から投棄されたように層状に堆積していたから、聚楽第本丸に使用されたものと考えられ、2002年(平成14年)6月26日国の重要文化財に指定された。また2012年(平成24年)秋には京都府埋文研究センターの発掘調査により、上京区上長者町裏門東入ルの京都府警西陣待機宿舎敷地南端で東西に延びる石垣基部が検出され、聚楽第本丸南堀北側の石垣と判断された。

このほか北の丸北堀の石垣も1997年(平成9年)に京都市埋文調査センターの発掘により検出されており、聚楽第内郭の姿がようやく現れてきた。

ルイス・フロイスは、キリスト教(イエズス会という一会派)を布教するため1563年(永禄6年)日本に来たポルトガル人。

『日本史』には聚楽第についての記述がある。「中公文庫」に完訳版がある。

 

検地

検地とは、田や畑の面積をはかり、その耕地からのとれ高・耕作人などを調べることである。検地は、秀吉がはじめたものではない。戦国大名も、もちろん織田信長も行っている。そうすることによって、領地の様子がはっきりするからである。しかしその検地はおもに「指出 さしだし」といって、降伏した者が自分の領地のことを申し出るというものであった。したがって、その指出には、うそがあるかもしれない。およそのことだけを、申し出る者もすくなくなかった。これに対して秀吉の検地は、検地奉行を派遣し、一定の基準にしたがって、全国にわたる徹底的な調査をするというものであった。

秀吉は、1591年に奥州検地をしているが、このときには浅野長政を奥州総検地奉行に任じるとともに、「もし反対する者があったら、城主ならば、その者を城におしこめ、一人残らず名で切りにせよ。百姓たちの場合も、一郷も二郷も、ことごとくなで切りにしてかまわない」という意味の命令を与えている。

ここにも秀吉の、断固とした決意をうかがうことができよう。秀吉はこの検地によって、どの地域でどれだけの米がとれるかを、はっきりつかめるようになった。また、米のとれ高は、「石高」という言葉であらわされ、大名は「〇万石」の大名といわれるようになる。さらに大名に領地を与える場合にも、大名から兵力を出させたり、手伝いをさせたりする場合にも、石高をもとにして行われるようになつた。このように考えると、秀吉は検地によって、全国を確実に治めるための基礎を固めたのだといえる。

 

※ 検地の基準

炭鉱検地の基準は、次のようであった。

(1)面積の測り方は、六尺三寸(約191cm)四方を一歩、三百歩を一反(約10アール)、十反を一町(約1ヘクタール)とする≪それまでは面積の測り方は地域によって違っていた≫

(2)米などの穀物の量を量る升も、それまで地域よって違っていたのを京升に統一する。

(3)田畑を上田・中田・下田、上畑・中畑・下畑などのように分け、上田一反からは一石五斗(約225キロ)、中田は一石三斗などというように、取れ高の目安をあきらかにした。

そのほか、つぎのようなことも決めている。

・年貢は、田畑を実際に耕作している農民が納める。

・村の有力者などが、勝手に年貢をとることを禁止する。

・農民が、勝手によその土地にうつることを禁止する。

・年貢はすべて米で納めるものとする。

 

刀狩り

刀狩も検地とおなじように、全国を確実に治めるための基礎工事の一つであった。1588年(天正16年)7月8日、秀吉はつぎのような三ケ条の命令を出して、それまでにも部分的に行われていた刀狩りを、徹底的に行うことにした。

(1)国々の百姓たちが、刀・脇差・弓・槍・鉄砲、その他の武器などを持つことを禁じる。必要もない武器の類を持っていて年貢を怠ったり、一揆騒動を起こしたり、役人のいうことをきかなかったりする者どもは処刑する。

(2)それらの武器は、今つくっている大仏殿の釘や鎹(かすがい)にする。そうすれば百姓たちは、末世まで救われるだろう。

(3)百姓は、百姓道具だけをもって耕作に精を出していれば、子子孫孫まで安楽に暮らせるものである。いま武器を取り上げるのは、百姓を愛するからである。そのことを考えて、百姓は農業に精を出さなければいけない。

この命令では、取り上げた武器は、大仏殿の造営に使うとか、百姓を愛するからこうするのだとかいっているが、それが秀吉の本心だったわけではない。秀吉の本心は、農民が団結して起こす一揆を防ぐこと、武士と農民との区別をはっきりさせること(兵農分離)にあった。土一揆・一向一揆のおそろしさは、信長も秀吉も各地の大名も、身をもって経験してきたところである。「一揆を起こせてはならぬ。一揆は、社会を乱すもと」だから、天下を治める立場の者としては、なんとかして農民の牙を抜いておかなければならない。その考えのあらわれが、刀狩りであった。

 

天下統一と堺の商人

信長・秀吉による天下統一への歩みと、当時日本最大の商業都市であった堺の商人とのかかわりについて、触れておきたい。この堺について、ある宣教師は次のような記録を残している。

「堺は、日本の中でも最も豊かなまちです。まちは広々として、たくさんの大商人が住んでいます。また、このまちは大きな特権をもち、まるで共和国でもあるかのようにまちの人々の手によって政治をしていて、人々は自由に、のびのひと暮らしています。他の都市や城が戦争にまこまれているときでも、このまちだけは平和です」

 - 富 の 力 -
これは、決しておおげさな言い方ではない。このころ堺は、三方に深い堀をめぐらして守り固めていた。また、たくさんの武士をやとって、いざというときに備えさせてもいた。その一方、まちの中心になって政治をしていたのは、会合衆(えごうしゅう)と呼ばれた36人の大商人たちである。かれらは、定期的にあるいは何か問題が起きるたびに会合して話し合った。そして、堺のまちの安全をたもつこと、このまちちの商業をいっそう盛んにすることなどにつとめていたのである。

その堺のまちの人々が、平和で自由な暮らしができたのは、大商人を中心に、莫大な富を持っていたからであった。堺の商人たちは、たくさんの船をもち、瀬戸内・九州・琉球(沖縄)などの各地を往来させた。もちろん、各地の物資を手にいれ、これを近畿地方の各地に売りさばいて利益を上げたのである。一方、近畿の各地から集めた物資を、前記の各地へ運んで商業活動のほかに、彼らは、外国との貿易にも手を付けていた。

その一つは、明(中国)や朝鮮との貿易である。さらに16世紀中ごろからは、ルソン(フィリピン)・安南(ベトナム)・カンボジア・シャム(タイ)などの国々との貿易がはじめられている。

この貿易による利益が大きかったのはもちろん、それ以上に忘れることのできないのは、この貿易によって、硝石・鉛などの軍需物資が大量に輸入されたことであった。

硝石は火薬の原料として、鉛は弾丸として、鉄砲にはなくてはならないものである。鉄砲の威力にめざめた各地の大名が、これらをほしがらないわけがない。したがって、この輸入品による堺の商人の利益も、莫大なものになったのである。このほか、堺のまち自体も指折りの鉄砲の生産地であった。こうして、堺の持つ富の力は、並ぶ者のないほど強いものになった。堺の人々は、その力で堺のまちを守ろうとした。ときには、その富の一部を差し出して、大名同士の争いをおさめたこともある。

 

秀吉と堺

秀吉も、堺の商人をおさえるとともに、その力を利用することを忘れなかった。

例えば、彼は、
・大坂城の城下町をつくるとき、多くの堺商人を、ここに移住させた。・堺を直轄領(じかにおさめる領地)とし、家臣の石田三成を代官として送り込んだ。その一方明(中国)との貿易で財産を築いた商人小西隆佐を、代官にひきたてている。のちに隆佐の子小西行長は、九州の肥後(熊本県)で24万石の大名になった。などのこともしている。

そのほか、堺の商人が貿易によって手に入れた品々を差し出させたり、あるいはその富の力をさかんに利用しようとしたりしたことはいうまでもない。このうち小西隆佐は、秀吉が、九州征伐したとき、船でたくさんの兵糧を運ぶなど、大活躍している。

千利休も、秀吉と堺のつながりを考えるとき、忘れられない人物の一人である。堺の大商人の家に生まれた利休は、竹野紹鴎などから茶道を学び、やがて秀吉に仕える茶頭となった。彼はまた、茶道の面で活躍しただけでなく、「宗易(利休)でなければ、関白(秀吉)に一言も申し上げることはできない」といわれるほど、秀吉と親しかった。さらに、薩摩(鹿児島県)の島津氏が大友氏と争っていたのをやめさせようとしたり、博多(福岡県)の大商人島井宗室を秀吉のために働かせようとするなど、政治のうえでも秀吉のために力を尽くした。

利休の茶は、秀吉の黄金の茶室にみられるようなぜいたくで派手なものではなく、狭い質素な茶室で、素朴な茶碗で静かに茶をあじわうことをとうとぶものであった。これを、“侘茶”と呼んでいる。利休がはじめた茶道は、古田織部・小堀遠州・本阿弥光悦・片桐石州などに伝えられ、たいへんさかんになった。これらはいまも、表千家・裏千家・遠州流・石州流などの名で、私たちの生活の中に伝えられている。

 

 

≪堺の鉄砲鍛冶≫

「物のはじまり なんでも堺 三味も小歌もみな堺」とという歌がある。

堺は、特に南蛮の新しい文化に敏感であったし、その豊かな経済力をもとに堺自身が生み出し育てた文化も少なくない。鉄砲鍛冶は、そのような堺を象徴するものの一つであった。

 

千利休の死

堺の商人の出身であった千利休は、茶道の大成者として知られている。信長・秀吉が堺の町を支配下におさめるとともに、利休は信長・秀吉に仕えることになった。秀吉との関係では、主従というより茶道における師匠(利休)と弟子(秀吉)という関係であったらしい。秀吉は多くの文化人を御伽衆として身近におき、遊芸を楽しんだ。

利休も御伽衆の1人であった。北野大茶会などは、秀吉の命を受けて、利休が主宰したものである。

しかし、秀吉が天下人として勢いを示すようになると、この関係は微妙になってきた。侘茶を完成した利休には、秀吉の贅沢三昧なやりかたがしだいに我慢ならなくなったであろうし、御伽衆として秀吉のご機嫌をうかがうことは耐えられないことだったろう。一方、秀吉にとっても、天下人である自分にいつまでも師匠面をする利休は、小憎らしい存在だったろう。ついに1590年、秀吉は利休に切腹を命ずるのである

 

 

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