カテゴリー:日本史の通史
生麦事件 生麦事件は、次のようにして起こった。 先に記したように1862年(文久2)、薩摩藩の島津久光は、幕政の改革と公武合体をすすめようとして江戸まで出向いた。その帰途8月21日ことである。…
薩英戦争 一方、薩摩藩は、一向にいうことをきこうとしない。かえって、生麦事件ののちは、「いつかはイギリス艦隊がやってくるだろう」と、沿岸の防備を固めることに熱中する有様であった。 186…
禁門の変と第一次長州征伐(征長) 8月18日の政変で、みじめな思いをした長州藩の中には、「このままではすまされない。もう一度京都へのぼって天皇を我が手におさめ、藩の意見を天下に広げていこう」と息巻く者がいた。久…
新選組と池田屋事件 8月18日の政変のあと、京都市内の警備に活躍したのが、近藤勇を隊長とする新選組である。彼らは、京都守護職・松平容保のもとで、その信頼と理解を頼りにしながら、特に攘夷の志士たちの取締にあたった…
公武合体派 攘夷親征論が高まり、大和行幸の詔勅がはっせられていたとき、これとは違った考えのもとに重要な動きをする人々があった。攘夷という点では共通するところもあるのだが、「幕府を倒すというようなはげしいことをい…
長州藩の動き 尊攘の動きを強く支えていたのは、長州藩であった。とはいっても長州藩は、はじめから尊攘の旗印を明らかにしていたわけではない。 混乱する政情の中で、長州藩がその主導権を握ろうとしたとき、まず掲げたのは…
大和行幸の詔勅 8月13日には、大和行幸の詔勅が発せられた。これは、孝明天皇みずから大和に行幸し、神武天皇の山陵や春日神社に参拝するとともに、ここで御親征の軍議を固める。そのうえで伊勢神宮に参拝するというもので…
海を渡った遣米使節 万延元年(1860)1月、つまり、安政の大獄で吉田松陰や橋本左内が処刑されたすぐ後のこと、アメリカの軍艦ポーハタン号が江戸湾を出発し、アメリカへ向かった。 この…
安政の大獄 幕府に対する反対の声が高まる中で、大老・井伊直弼は、これをだまってみていたわけではなかった。 彼は、幕府の力を示し、その威信を高めるためにも、反対派をおさえこもうとした。そのために、尾…
孝明天皇と公卿たち 幕府による条約調印は、朝廷の発言力を増すきっかけともなるものであった。 もともと江戸時代においては、朝廷は、政治についての発言をほとんどしないで過ごしてきた。政治の実権は幕府に…