薩英戦争
薩英戦争
一方、薩摩藩は、一向にいうことをきこうとしない。かえって、生麦事件ののちは、「いつかはイギリス艦隊
がやってくるだろう」と、沿岸の防備を固めることに熱中する有様であった。
1863年6月、その薩摩藩の予想通りに、キューバ―提督の率いる7隻のイギリス艦隊が鹿児島湾に深く侵入して
きた。そして7月2日、おりからの台風のため、激しく風雨がふきすさぶ中で、戦闘がはじまった。
薩摩藩の戦いぶりはめざましかった。10か所の砲台にそなえた83門の大砲からは、イギリス艦隊に次々に砲弾
が撃ち込まれ、死傷者60人余りという被害を与えている。しかし、大砲の威力ということからいえば、イギリス側の方がよほどすぐれていた。なにしろ、薩摩藩の大砲は1000mほどしか砲弾を飛ばせないのに、イギリス艦隊から発射された砲弾は、4000mも届くのである。そのため、時がたつにつれて薩摩藩側の砲台は次々に破壊され、鹿児島市内までが被害をうけるという有様になった。
こうして、3時間余りにわたる戦いは終わったが、この戦いが薩摩藩の人々の考え方に与えた影響は大きかった。
このことについて、この戦いを経験した市来四郎という武士は、のちに次のように語っている。
「この戦いは、開明のためによい刺激になったと思います。例えば、大久保利通などは、そのころまで根っからの攘夷家で、外人といえば唾を吐くようなおとこでした。けれどもこの戦いの後はこりごりして、外人を見直すようになっています。人間の考え方というものは、一日一日と進歩するものですが、この戦いは、薩摩の人々の考えを一変に大きく変えていくきっかけになったのだというます。」
思い知らされた外国の力
尊攘派・公武合体派などの争い、あるいは長州征伐などが国内的な大問題になっていたころ、長州・薩摩の両
藩は、いずれも外国の力を思い知らされるような事件に遭遇していた。そしてその事件が、事後の政局にも大き
な影響を与えることになった。
生麦事件をっかけとする薩英戦争、攘夷のと実施にかかわる四国艦隊と長州藩との戦いが、それである