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  1. 猪苗代城の妖怪・亀姫
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歴史ネタ帖

カテゴリー:日本史の通史

孝明天皇と公卿たち​​ 幕府による条約調印は、朝廷の発言力を増すきっかけともなるものであった。​​ もともと江戸時代においては、朝廷は、政治についての発言をほとんどしないで過ごしてきた。政治の実権は幕府に…

攘夷の巨頭・徳川斉昭 徳川斉昭(なりあき)は、徳川御三家の一つ、水戸藩の藩主として活躍した人物である。天下の副将軍と呼ばれるような家柄であっが、斉昭は強硬な攘夷論者としても知られていた。​ 斉昭の攘夷論のもとにあ…

開国をめぐってアメリカ行きに失敗した吉田松陰​​​ 1854年(安政元)3月、ペリーが2度目の来日をして、日米和親条約を結んだころのことである。下田の港内にとめられているアメリカ軍艦をめざして、こぎ出して…

大老井伊直弼の決断 ただ通商条約案がまとまった後も、すぐには調印しようとしなかった。調印しなければ、条約を正式に結んだことにはならない。もちろん自由貿易をはじめることも、アメリカ公使が日本に来ることもできないわけである。…

ハリスの要求 1856年(安政5)8月5日、つまりペリーが日本を離れてから2年余りの後のこと、下田(静岡県)の玉泉寺の庭に、高い旗ざおが立てられ、アメリカの国旗、星条旗がかかげられた。風になびくこの旗を、真剣な目でみつめ…

万延元年 万延元年遣米使節  77人 留学生5人 使節など行った人 新見正興、村垣範正、小栗忠順、森田清行、成瀬正典、塚原昌義、 玉虫左太夫誼茂(仙台藩の人、随行記を書くが後に戊辰の役の責 任で切腹させられた人)…

条約の締結 1854年(安政元年)1月、ペリーは再び日本にやってきた。もちろん、6ケ月前に渡した国書への幕府からの返事をもらうためである。 そして、前のときより3隻も多い、7隻の艦隊を率いたペリーの態度は…

開国への道日米和親条約 プチャーチンはさして問題を残さずに長崎をさったとはいえ、ベリーの強硬な態度と再度の来日のは、幕府当事者に思い枷となって残っていた。幕府や諸大名の対応…

ロシアの使節・プチャーチン 久里浜応接館でのペリーは、大統領フィルモアからの国書を日本の役人に渡しただけで、一応引きあげていった。江戸の人々が心配した「すわ戦い」という事件は、起こらないですんだのである。しかし、ただ引き…

 ​​黒船来航と日本​​​ 17生気の初め、つまり江戸幕府ができた前後には、ヨーロツパではイスバニア(スペイン)、ポルトガルなどの勢力が強大であり、アジア各地への進出にも積極であった。その波は日本にも及んできたのだが、や…

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猫は、真実を見ている。 はじめまして、黒坂メイ(ペンネーム)てす。「分かりやすい・簡単・安心して使える歴史ネタ」を提供し、「そうなんだなぁ」と歴史を身近に感じて頂けるホームページを目指しています。 宜しく、お願いいたします。