カテゴリー:日本史の通史
蝦夷の国 蝦夷というのは、東北地方の中央から北部にかけて住んでいた人々に対して、当時の都の人々がつけた呼び名である。もともと大和朝廷の勢いが、東北地方にまでおよんでいったのは、大化の改新以前からのことであった。それは大化のころに、この地…
期待をこめた都早良親王の怨霊をあそれた桓武天皇が、和気清麻呂の進言を取り入れ遷都を決意したのは、792年(延暦11)ころのことであったらしい。このとき長岡京の建設は、まだ終わっていない。むしろ、平城宮の諸門を解体して長岡にはこぶなど、工…
長岡京の建設 即位から三年の784年(延暦3)、桓武天皇は、山城国(京都府)に長岡京の建設をはじめた。「新しい政治をすすめるには、都をうつして、人々の心を新たにする必要がある。それに長岡は、水陸の交通が便利で、都をつくるのにふさわし…
桓武天皇の意気込み 781年、44歳という働きざかりで即位した桓武天皇は、ただちに乱れた政治を改めることに手をつけた。その第一は、優れた人材を登用し、問題のある中央・地方の官僚は厳しく処断することによって、律令政治を引き締めることである…
崩れる地方政治の仕組み 中央で権力争いが続けられていたころ、地方政治にも大きな変化が生まれてきていた。その主な現れとして、私有地の増大、地方官僚の腐敗などをあげることができる。☆耕地をふやす努力 朝廷が政治の基礎にしようとした公地公…
道鏡を退けた神の声藤原仲麻呂が死んだあと、僧の道鏡が朝廷の実力者となった。かねて道鏡を信頼していた孝謙太上天皇は、淳仁天皇を淡路島へ追放したあと、再び暗いについて称徳天皇となり、道鏡を左大禅師に、つづいて、太政大…
藤原仲麻呂の全盛と没落 橘奈良麻呂をはじめ、反対派の皇族や有力貴族を押さえつけた仲麻呂は、前にもまして、思うままのふるまいをするようになった。まず758年(天平宝字2)には、皇太子大炊王(おおいのおう)が即位して、淳仁天皇となった。…
藤原氏の進出 奈良時代のはじめ、政界にめざましく進出してきたのは、藤原不比等とその子孫たちであった。不比等は、大化の改新で手柄のあった中臣(藤原)鎌足の子である。とはいっても藤原氏は、もともと朝廷の中での特別な有力者であったというの…
行基の待遇奈良時代に民間伝道と社会事業をおこなったことで知られる行基は、人々から菩薩さまと呼ばれてありがたがられた。しかし、朝廷にとっては、彼の行動は苦々しいものだった。律令の僧尼令によれば、僧尼は寺院内に生活して国家の安泰を祈っ…
聖武天皇と仏教唐へ渡った人々などを中心にきずかれていった奈良時代の文化を、年号にちなんで天平文化とも呼んでいる。その「天平」の年号が定められたのは聖武天皇のときであり、天平文化もまたこの聖武天皇のころに、絢爛たる華をひらかせたのであ…