行基と奈良の大仏
行基の待遇
奈良時代に民間伝道と社会事業をおこなったことで知られる行基は、人々から菩薩さまと呼ばれてありがたがられた。しかし、朝廷にとっては、彼の行動は苦々しいものだった。律令の僧尼令によれば、僧尼は寺院内に生活して国家の安泰を祈っていればよいのであって、民衆に説教するなど、禁じられていたのである。717年に出された詔では、「小僧行基」と呼んで彼を「人々を惑わす」と非難している。
ところが、731年には、行基の弟子のうち、91歳以上の男子と55歳以上の女が僧尼になるとこを許された。
このときの詔では「行基法師」と普通に呼ばれている。さらに738年頃の書物では、行基のことを高僧を意味する「大徳」と記している。そして745年には何と「大僧正」に任命されるまでになったのである。
このような行基に対する態度の変化には、仏教に深く帰依する聖武天皇の即位があったことがいわれている。
しかし、それだけでなく、行基に対する民衆の帰依が無視できないほど大きくなったことも挙げられる。
行基
行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年(668年) – 天平21年2月2日(749年2月23日))は、飛鳥時代から奈良時代にかけて活動した日本の仏教僧である。朝廷が寺や僧の行動を規定し、民衆へ仏教を直接布教することを禁止していた当時、その禁を破って行基集団を形成し、畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く人々に仏教を説いた。併せて困窮者の救済や社会事業を指導した。布施屋9所、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を各地に整備した。当初、朝廷から度々弾圧や禁圧を受けたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。
日本地図を作成したとの伝承もある(行基図)。
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