カテゴリー:日本史の通史
盲目の高僧 鑑真奈良時代における日本と唐との結びつきを考えるとき、唐の高僧、鑑真の来日のことを忘れることができない。--高僧を求めて--733年に難波の港を出発した遣唐船には、知太政官事〈いまでいうと首相代理〉から需要な命令をうけ…
阿倍仲麻呂と吉備真備≪唐で学んだ人≫を考えるとき、阿倍仲麻呂と吉備真備の名を忘れることはできない。この二人は、ともに717年出発の遣唐使に、留学生としてついていったのであるが、その一生は、まったく違った道を歩むことになつた。仲麻呂は…
大唐をめざして ~四つの船~奈良時代の朝廷の人々にとって、海をへだてた大国「唐」は、あこがれの地であった。このころ、唐が支配する地域は、東は朝鮮半島、西は中央アジア、北はシベリアの南部、南はインドシナ…
鎌倉時代 ~荘園と国衙領~ その当時の日本地方社会は、二重構造になっていた。当時の社会の基盤は土地であったが、それは朝廷の政治の支配のもとにあった国衙領と、貴族や社寺がもっいた荘園の二つに分かれていた。…
疑い深かった頼朝弟義経を滅ぼした頼朝は、猜疑心の強い人だったらしい。平氏追討の総大将をつとめたもう一人の弟範頼も、この猜疑心の犠牲になった。範頼は義経の死後、頼朝から疑惑をもたれないようにと、さまざまに腐心したが、伊豆の修禅寺に幽閉…
歌人としての実朝政治についての関心がうすかった実朝は、御家人たち、特に北条氏からは「安全な将軍」とみられていたらしい。そして、政治や軍事のことはほとんど北条氏がまかされ、将軍としての実朝の仕事は、寺社におまいりして国の平和や豊作を祈…
☆将軍としての頼家1182年(寿永1)8月12日、源頼朝の妻政子(北条時政の娘)は、玉のような男の子(万寿)を産んだ。跡継ぎが編まれたというので、頼朝の喜びはひとしお大きかった。もちろん、源氏の安泰を願う…
大御所(家康)の死家康は、70歳になったころから、“日課念仏”をはじめた。長さが十メートル余りもある巻物に、毎日「南無阿弥陀仏」の名号を書き続けていくのである。そば近くつかえていた天海という僧が、「殿は、これまで多くの戦いで、たくさ…
大坂の陣家康は、諸大名をおさえるために、特に力をつくした。しかし、どうにも気がかりでならない大名が一人いた。もちろんそれは大坂城にいる豊臣秀頼である。このころ秀頼は、摂津・河内・和泉(いずれも大阪府)の三カ国に、65万石の領地をもつ…
征夷大将軍 徳川家康徳川家康は関ヶ原の戦いによって、豊臣氏に味方する大名や武士に大打撃を与えた。もちろん、「天下をわが手に・・・」という家康の望みが、一気に果たされることにもなったのである。しかし、問題はまだたくさん残っている。こ…