徳川家康 ~征夷大将軍~
征夷大将軍 徳川家康
徳川家康は関ヶ原の戦いによって、豊臣氏に味方する大名や武士に大打撃を与えた。もちろん、「天下をわが手に・・・」という家康の望みが、一気に果たされることにもなったのである。しかし、問題はまだたくさん残っている。こののちの家康は、徳川氏の力や地位を強めるとともに、全国の大名をしっかりとおさえるために、特に力をそそいだ。
~ 西軍大名の改易と譜代大名の取り立て ~
家康がもが行ったのは、西軍に加わった大名を、徹底的にいためつけることであった。そのためにとったのが、改易(領地を取り上げる)・転封(国替・・領地を他に移す)という方法である。例えば、石田三成のうしろだてとなった毛利輝元は、大阪城にとどまっていて、関ヶ原の戦いには加わらなかった。それでも、八か国・120万石の領地の大部分は取り上げられ、長門・周防(ともに山口県)の二か国・36万石に減らされてしまった。まして、戦いに参加した西軍大名の領地が、すべて取り上げられたことはいうまでもない。その総額は、およそ90家・590万石にも及んだという。家康は、こうして取り上げた領地を、東軍に加わった大名たちに与えた。
また、家康にもとから仕えていた家臣を、大名(これらを譜代大名という)に取り立てて、彼らにも新しく領地を与えるようにした。そのほか、徳川氏の一門で大名(これを親藩という)になった者も少なくなかった。その新しい親藩・譜代大名の数は、68家にもなったから、徳川氏の力が急にたかまったことはいうまでもない。じつはこのころ、「天下」を狙っていたのは、家康だけではなかった。他の有力大名も、多かれ少なかれ、「天下をわが手に・・・」という望みをもっていたのである。
しかし、いちだんと勢いをました家康の姿を見ては、その望みを急にしぼんでいった。九州の鍋島直茂などは、「天下とりの望みなど、夢にもみるのさえもったいない。今後は、冗談にも決していうまい」ともらしたほどであったという。その一方、改易された大名の家来たちは、浪人したり農民になったりするほかなかった。そして、これらのたくさんの人々が、徳川氏への反感をつのらせたのは、当然であった。
将軍としての家康
1603年(慶長8)2月12日、関ヶ原の戦いから3年余りたっととき、62歳になつた家康は、征夷大将軍に任ぜられた。
いよいよ、全国の武士を従える者としての資格を、正式に認められたわけである。
将軍の地位についた家康は、諸国の大名をおさえるために、次のようにいちだんと工夫を重ねた。
・諸大名の邸を江戸につくらせ、大名たちが江戸にきたときには、ここに住むようにさせる。これは、のちに「参勤交代」の仕組みとして、ととのえられるようになる。
・有力な大名と縁組したり、家康のもとの苗字の「松平」の姓を与えたりして、相手を手なずける。
・城をつくったり修理したりする工事や、治水工事、あるいはそのころさかんにおこなわれていた江戸のまちづくりなどを手伝わせ、お金をたくさん使わせる。
なかでも、築城や工事などのさまざまな手伝いは、大名たちを困らせた。
例えば、九州の鍋島勝茂は、名古屋城をつくる手伝いをさせられたとき、家来の俸給の三割を削って、その費用にあてたという。
また福島正則は、同じように名古屋城の手伝いを命ぜられ、「私は、昨年も篠山城の手伝いをさせられた。もうこれでよいと思っていたら、今年は名古屋城の手伝いだ。もしこれが、江戸とか駿府(静岡市、家康が隠居したところ)の城ならばまだ我慢ができるのだが、名古屋城というのは、家康公の九番目の子どもの城ではないか。これではたまったものではない。なんとか、やめさせてもらえないものだろうか」などと嘆いている。
こうして大名の力をおさえた家康は、さらに、大名が子供に領地を譲ったときや国替のときには、「その国の藩主とする」ということを記した証書を与えることにした。
これは、全国の土地は将軍のものであり、それぞれの大名は、将軍の命令でその領地を治めているのだということを、大名たちにはっきりとわからせようとしたものであった。
財力の増大
諸国の大名をおさえるためには、徳川氏自身が、それらの大名とくらべものにならないような広い領地と、莫大な財産を持つようにならなければならない。こう考えた家康は、
・領地(天領という)を広げること、特に政治上・交通上重要な土地(例えば京都・伏見・堺・奈良・長崎など)を、直接治めるようにする。
・おもな鉱山を天領にし、特に金・銀などを一人占めにできるようにする。
などのことにつとめた。このため、徳川氏の領地は、たちまち250万石余りになり、さらに次々に増えていった。
また、金・銀の増産も、目を見張るばかりであった。
特に大久保長安に鉱山の開発をもかせてからは、石見(銀山)・佐渡(金山)・伊豆の金銀山などから、莫大な金・銀を産出するようになった。
これによって家康は、たちまち200万両余りの金をたくわえることになったといわれている。
知行とは
知行とは、一定の土地を家臣にあずけ、その土地からの年貢を給料として与えるというものである。
大名たちは、領地のすべてを自分のものにするとともに、家臣には、その一部を知行として与えることにした。
もちろん、どこを知行地にするかは、大名が決めるのである。
それまでは、武士と土地との結びつきが深く、武士はその土地を「先祖伝来の自分の領地」として大切にしてきた。
しかし、知行地ということになると、その結びつきが弱まってくる。
いつ知行地を変えられるかわからないし、土地と結びつくというよりも、主君と強く結びついて気に入られ、よい知行地をもらおうとするようにもなった。
このような気持ちにすることこそ、大名のねらいなのであり、知行の仕組みが広まっていく原因になったのだといえよう。
~ 城下町 ~
大名はまた、自分の城のまわりに、家臣を住まわせるようにもした。
城の近くに家臣がいれば、何か事件があったときに、すぐに呼び集められる。
しかも、家臣と知行地との結びつきを、いっそう薄くすることもできるからである。
もちろん、家臣が反乱を起こそうとしても、すぐにこれをおさえられた。
こうして各地には、大名の城を中心にして武士が集まり、さらに商人や職人も寄ってきて、城下町が生まれることになった。
大御所(家康)の死