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歴史ネタ帖

遣唐使と天平文化

大唐をめざして   ~四つの船~

奈良時代の朝廷の人々にとって、海をへだてた大国「唐」は、あこがれの地であった。

このころ、唐が支配する地域は、東は朝鮮半島、西は中央アジア、北はシベリアの南部、南はインドシナ半島までひろがっていた。

しかもそこには、平城京よりもさらに大規模な長安京がある。

みごとな建物が立ちならんでいるし、すぐれた学者も技術者も、詩人・画家などもいる。

アジアの国々をはじめ、ヨーロッパからも人が集まってきていて、さまざまなニュースを知ることもできる。

日本はそれまで、唐に学んで政治の仕組みを整え、法律をつくり、仏教をはじめ、衣服・住まい・生活の道具などをとりいれてきたが、その本家本元が、海を隔てた向こうにあるのである。

朝廷としては、この唐を無視できなかった。

それよりも、唐を通じて、さまざまなニュースを手に入れたい、唐のすぐれた文化を取り入れ、この日本を、もっとすぐれた国にしたい、とう気持ちが強かった。

さらに、大国「唐」の機嫌をそこねて、強大な軍隊にせめられてはたいへんなことになる、という心配もあった。

このようなわけで、朝廷は、しばしば唐へ使いを送っていた。

この遣唐使は、奈良時代を通じて、717年、733年、752年、759年、777年、779年とほぼ20年おきに6回出発している。いずれの場合も、四艘の船で出かけて行ったので、当時は、遣唐船のことを、四つの船ともよんでいた。

遣唐使の歴史
遣唐使は、19回が計画されている。

1、630年(舒明2)  犬上御田鍬・薬師恵日

   632年(舒明4)10月、犬上御田鍬ら、唐使高表仁とともに帰国する。留学僧霊雲、僧旻らとともに帰国する。

   633年(舒明5)唐使高表仁ら帰る。

2、653年(白雉4)  吉士長丹・高田首根麻呂・吉士駒(道昭)

   7月遣唐第2船沈没、根麻呂ら溺死、 

3、654年(白雉5)  高向玄理・薬師恵日

   7月、吉士長丹ら帰国する。

4、659年(斉明5)  坂合部石布

5、665年(天智4)  守大石・坂合部石積

   9月、唐使劉徳高ら来朝する。

6、667年(天智6)  伊吉博徳

   11月、遣唐使境部石積ら帰国する。

7、669年(天智8)  河内鯨

8、702年(大宝2)  粟田真人・高橋笠間・坂合部大部・山上憶良・(道慈)

9、717年(養老元 11月17日改元多治比県守・大伴山守・藤原馬養・(阿倍仲麻呂・吉備真備・玄ぼう)

10、733年(天平5)  多治比広成・中臣名代

11、752年(天平勝宝4)  藤原清河・大伴古麻呂・吉備真備

12、759年(天平宝字3)  高元度

13、761年(天平宝字5)  中止

14、762年(天平宝字6)  中止

15、777年(宝亀8)  佐伯今毛人・小野石根・藤原鷹取

16、779年(宝亀10)  布施清直

17、803年(延暦22)  藤原葛野麻呂・石川道益・(最澄・空海)

   4月、藤原葛野麻呂に節刀を授ける。805年6月遣唐使船帰国する。

18、836年(承和3)  藤原常嗣・小野篁・(円仁)

   4月藤原常嗣に遣唐使の節刀を授ける。7月遣唐使船が遭難する。

   9月藤原常嗣が節刀を返上する。                           

   837年(承和4)藤原常嗣に再び遣唐使の節刀を授ける。

19、894年(寛平6)  菅原道真・紀長谷雄  中止

   8月菅原道真を使唐大使に任命する。9月遣唐使を廃止する。

 

 

遣唐使 ~乗り組んだ人々~

「四つの船」に乗って唐へ渡った人は、一回に500人~600人もいた。といっても、このすべてが朝廷の命を受けて出かけた人たちではない。朝廷からの正式の使節は、押使〈おうし 統領の意、大使の上におかれた〉・大使や副使・判官〈じょう〉・禄事〈ろくじ〉などの役についた十人余りで、あとの数十人が船員や通訳、残りの数百人は、みずから志願し、選ばれて船に乗った留学生や学問僧たちであった。このうち、押使や大使には、四位の貴族が任命されるのが普通であった。このころは、三位以上の貴族が特に高級な者とれていいたから、その次の位の人が任命されたわけである。

しかし、天皇のかわりに日本の代表として行くのであるから、それなりの条件があった。

第一に、大勢の人々を率い、指図することができるような統率力があること。

第二に、姿形が立派で、動作もしっかりしていること。

第三には学問を深く学び、すぐれた詩や文章がつくれることなどである。

この押使・大使につづく副使や判官にも、おなじような条件に合う人が選ばれたらしい。副使・判官なども、それぞれ四つの船にわかれて乗り込み、その船の指図をしなければならなかったし、いざというときには、上官のかわりに仕事をするのであるから、当然のことであった。ところで、彼らが遣唐使に任命されることは、たしかに大きな名誉であった。

しかし、必ずしも心から喜んでこの命令を受けたわけではない。というのは、唐に渡るには、さまざまな危険があり、命がけの旅になる心配があったからである。ときには、せっかく出発しながら、途中で病気になった、と申し立て、大使の役を交代してもらったものもいたほどであった。

 これに対して、遣唐使についていった留学生・学問僧などは、みずから志願しただけあって、心にあるのは、唐の姿だけであった。「早く唐に生きたい。危険など、なんのことはない。そんなものは、私の力でけちらしてやる」という意気込みであった。天平文化と呼ばれる、すぐれた文化を栄えさせるようになったのである。

 

唐への往復の苦労

奈良時代の遣唐使は、秋に任命されるのが普通であった。そして、次の年の夏頃に、唐に向けて出発するのである。

しかし、その間には、さまざまな準備をしなければならない。唐へ渡る船の建造、従者や留学生・学問僧の選定、唐の皇帝へ持っていく手土産の容易などをはじめ、個人としての支度、親戚や友人との別れの宴など、しなければならないことはたくさんあった。

それらがすべて終わると、一同はそろって天皇に挨拶に行く。そして天皇から節刀〈せつとう〉を授けられ、したしく言葉をかけられる。
「いいか、あくまでもおだやかに、立派な態度でふるまってほしい。日本国の代表であることを、決して忘れないでほしい。それに、この節刀は、私のかわりに持っていくものだ。もし、一緒に行く者の中で罪を犯す者がいたら、この刀を使って、死罪にしてもよい。これからは、何事も、おまえたちの判断で決めてよいのだ」

こうして、いよいよ出発である。その日、難波の港は見送りの人でにぎわった。しかし、命がけの旅に出る人を見送るのである。家族も友人も、心配で胸をしめつけられるような思いであったであろう。ある母親は、一人の息子を送る歌を次のようによんだ。

   旅人の  宿りせむ野に  霜ふらば
    わが子はぐくめ  天〈あま〉の鶴群〈たずむら〉

(もし旅に出たわが子が、霜のふる野でこまるようなことがあったなら、天の鶴たちよ、どうぞわが子をその羽で守っておくれ)わが子を思う母親の、せつない心が、しみじみと伝わってくる歌である。

 そのような思いをこめて難波津(大阪)を出航した四艘の船は、波静かな瀬戸内海を西へ西へと進む。そして、北九州は五島列島の入り江に錨をおろす。あちこちの港でとまりながら進むから、ここまで一か月以上もかかったう。ここまでは一応おだやかな旅だが、さて問題はこれからである。

五島列島から中国の沿岸までは、早ければ二日、三日から一週間もあればついてしまう。しかし、それは、風向きがよく、都合のよい強さの風が吹いているときの話で、よい風が吹かなければ、出航もできない。

また、「さあ、待ちに待った風だぞ」とばかり出航しても、途中で風向きが変わって、目的地と違うところに流されたり、暴風雨に襲われて難破したりすることにもなりかねない。こんなことがあるために、一年余りもの間、五島列島付近で風待ちをすした遣唐船もあった。

また、目的地の唐へつくことができず、遠くの南の爾加委〈にかい〉という島へ流されてしまった船もある。このときには、100人以上の乗員のうち、5人が生き延びただけで、他は全員、島民に殺されてしまったという。

 つまり、遣唐船の苦労は、まず五島列島を出発すると同時にはじまったのであるが、なんとかして唐の沿岸についても、今度は、そこから長安までの長い陸上の旅がまっていた。

この陸上の旅は、海上の航海にくらべれば楽であった。そこには、珍しい風景がある。あこがれていた唐の人々もいる。唐へついた喜びと珍しさで、長い旅も苦労ではなかったかもしれない。

しかし、日本とは気候が違う。飲み水も食べ物も違う。それに、言葉の通じない不便さもあっただろう。やはり苦労は少なくなかったのである。

長安京への旅は、こうして終わるが、帰りの旅は、さらにきびしかった。航海にしても、行は目標が大きい。つまり、広い中国大陸のどこかの沿岸につけばよいのだが、帰りの航海は、九州か沖縄の島々へと、小さな目標をめざして進まなければならない。風向きが悪かったり、目標を見損なったりすると、目的地をそれていつまでも海上をただよわなければならない。そのうえ、暴風雨に襲われて難破することが多かった。

たとえば、733年に4艘で唐へ向かった船は、行きは無事だったが、帰りに第3船・第4船が遭難した。特に、第3船は、遠くマレー半島あたりまで流された。乗員115人のうち、住民に殺された者、捉えられて奴隷にされた者もあり、さらに90余りが熱病にかかって死んだ。やっとの思いで帰国したのは、4人であったという。

また753年には遣唐大使藤原清河らが乗り込んだ帰国第1船が、ベトナム半島までながされ、同乗した170人余りのほとんどは賊に殺された。そして、清河と阿倍仲麻呂など10数人だけが、命からがら唐へ逃げかえるありさまであった。

こうして、8世紀の遣唐船のうち、無事に往復できたのは、わずか1回しかなかったのである。

まさに、唐への往復は、命がけであったのだといえよう。

 

遣唐船の大きさ

『常陸風土記』には、「天智天皇ころにつくられた船が、鹿島の海岸に流れ着き、砂に埋もれたままになっている。その大きさは長さ十五丈(役45メートル)、幅1丈(3メートル)ほどある」という記事が載せられている。遣唐船の大きさは、大体このくらいではなかったかと想像されている。しかし、この大きさの船に150人もの人が乗るのは大変なことである。実際は、もう少し大きな船だったのではないかという意見もある。



 遣唐船の船員

遣唐船には、安全な航海のために、次のような人々が乗っている。
船長・航海長・艘舵手・水夫長・水夫・神主・医師・陰陽師(易や天文をみる)・画師・船大工・修理技師。その他、唐語通訳・新羅や奄美語通訳など。
これらの人々には、みな手当が支給されたが、その額をみると、船長・医師・神主・陰陽師・画師・唐語通訳は動学になっている。それらの人々が特に重視されていたことの表れである。


 留学生・学問僧

遣唐使と共に唐に渡った留学生や学問僧たちは、志願して選ばれた人たちだった。当時の航海の危険性を考えると彼らの熱意は相当のものだったに違いない。
しかも、一度唐に渡れば、次の遣唐使の渡来まで、10年、20年といった歳月を異国で過ごさなければならかった。もちろん、無事帰国すれば、立身出世の道が待っているという計画もあったろう。貴族社会の傍流に生まれたものにとって、留学生・学問僧に志願することは、自分の一生を賭けたギャンブルだったのかもしれないのである。一方、彼らに寄せる朝廷の期待も大きかった。このことは、かれらの待遇からもうかがえる。「延喜式」によれば、出発に当たっての手当は、遣唐副使とほぼ同じになっている。
しかも、従者をつけることもできたほどであった。

 

天平改元のいわれ

 長屋王の変の直後の729年、藤原四兄弟の四男麻麻呂が、「珍しい亀を手にいれました」と献上のために平城宮に参内した。当時から亀は千年万年の寿命を保つというということで、おめでたいものとして珍重されていた。

ところが、麻呂の献上した亀は、大きさも大きいかったが、背中に文字が記されているというのである。それも麻呂によれば、「天平貴平知百年」と読め、瑞祥のしるしだという。これはめでたい、ということで、亀は天皇に献上された。こういうめでたいしるしのあるときには、改元というのがそのころのならわしだったから、早速学者が集められ、その年の八月、神亀六年を改めて、亀の背の文字をとって天平元年とすることになった。

天下太平を積極的に祝福するように、「天平」とあらためられたというのである。藤原一族にとっても、まさに「天平」の始まりであった。

 

 

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