歌人としての実朝政治についての関心がうすかった実朝は、御家人たち、特に北条氏からは「安全な将軍」とみられていたらしい。そして、政治や軍事のことはほとんど北条氏がまかされ、将軍としての実朝の仕事は、寺社におまいりして国の平和や豊作を祈…
☆将軍としての頼家1182年(寿永1)8月12日、源頼朝の妻政子(北条時政の娘)は、玉のような男の子(万寿)を産んだ。跡継ぎが編まれたというので、頼朝の喜びはひとしお大きかった。もちろん、源氏の安泰を願う…
大御所(家康)の死家康は、70歳になったころから、“日課念仏”をはじめた。長さが十メートル余りもある巻物に、毎日「南無阿弥陀仏」の名号を書き続けていくのである。そば近くつかえていた天海という僧が、「殿は、これまで多くの戦いで、たくさ…
大坂の陣家康は、諸大名をおさえるために、特に力をつくした。しかし、どうにも気がかりでならない大名が一人いた。もちろんそれは大坂城にいる豊臣秀頼である。このころ秀頼は、摂津・河内・和泉(いずれも大阪府)の三カ国に、65万石の領地をもつ…
征夷大将軍 徳川家康徳川家康は関ヶ原の戦いによって、豊臣氏に味方する大名や武士に大打撃を与えた。もちろん、「天下をわが手に・・・」という家康の望みが、一気に果たされることにもなったのである。しかし、問題はまだたくさん残っている。こ…
征夷大将軍・徳川家康 ~関ヶ原の戦い~豊臣秀吉の死から2年余りたった1600年(慶長5)9月15日、美濃国(岐阜県)関ヶ原で、「天下分け目」とよばれる大合戦が始まった。一方は、東から約10万の兵を率いて進んだとぐ川家…
大陸征服の夢 ~豊臣秀吉~1591年9月、秀吉は諸大名に朝鮮出兵の準備を命じた。と同時に、黒田長政・小西行長・加藤清正など子飼いの大名に銘じて、出兵基地と定めた肥前(佐賀県)の名護屋に築城をはじめさせた。このころ秀吉は、すでに九州・…
天下統一の完成大坂築城以後も、秀吉による天下統一の歩みは、順調そのものであった。暗いも、正二位内大臣従一位関白(1585年・49歳)・太政大臣(1586年・50歳)となり、天皇から豊臣の姓をたまわって、豊臣秀吉と改名もしている。一方…
大阪城の築城柴田勝家をほろばした年(小牧・長久手の戦いの前年)、秀吉は大阪・石山の地に壮大な城を築きはじめた。秀吉は、主君信長が安土城を築いたのにならって大坂城を築き、ここを天下統一の拠点にしようとしたのである。同時にそれは、世の中…
天下人への道本能寺の変、そして主君信長の死。それは秀吉が「天下人」への第一歩を踏み出すきっかけになった事件であった。このとき秀吉は、備中・高松城攻撃の最中であったのだが、信長の死の知らせがあったとき、家臣黒田如水(孝高 よしたか)が…