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  1. 猪苗代城の妖怪・亀姫
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歴史ネタ帖

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道鏡を退けた神の声藤原仲麻呂が死んだあと、僧の道鏡が朝廷の実力者となった。かねて道鏡を信頼していた孝謙太上天皇は、淳仁天皇を淡路島へ追放したあと、再び暗いについて称徳天皇となり、道鏡を左大禅師に、つづいて、太政大…

藤原仲麻呂の全盛と没落 橘奈良麻呂をはじめ、反対派の皇族や有力貴族を押さえつけた仲麻呂は、前にもまして、思うままのふるまいをするようになった。まず758年(天平宝字2)には、皇太子大炊王(おおいのおう)が即位して、淳仁天皇となった。…

藤原氏の進出 奈良時代のはじめ、政界にめざましく進出してきたのは、藤原不比等とその子孫たちであった。不比等は、大化の改新で手柄のあった中臣(藤原)鎌足の子である。とはいっても藤原氏は、もともと朝廷の中での特別な有力者であったというの…

 行基の待遇奈良時代に民間伝道と社会事業をおこなったことで知られる行基は、人々から菩薩さまと呼ばれてありがたがられた。しかし、朝廷にとっては、彼の行動は苦々しいものだった。律令の僧尼令によれば、僧尼は寺院内に生活して国家の安泰を祈っ…

聖武天皇と仏教唐へ渡った人々などを中心にきずかれていった奈良時代の文化を、年号にちなんで天平文化とも呼んでいる。その「天平」の年号が定められたのは聖武天皇のときであり、天平文化もまたこの聖武天皇のころに、絢爛たる華をひらかせたのであ…

盲目の高僧  鑑真奈良時代における日本と唐との結びつきを考えるとき、唐の高僧、鑑真の来日のことを忘れることができない。--高僧を求めて--733年に難波の港を出発した遣唐船には、知太政官事〈いまでいうと首相代理〉から需要な命令をうけ…

阿倍仲麻呂と吉備真備≪唐で学んだ人≫を考えるとき、阿倍仲麻呂と吉備真備の名を忘れることはできない。この二人は、ともに717年出発の遣唐使に、留学生としてついていったのであるが、その一生は、まったく違った道を歩むことになつた。仲麻呂は…

大唐をめざして   ~四つの船~奈良時代の朝廷の人々にとって、海をへだてた大国「唐」は、あこがれの地であった。このころ、唐が支配する地域は、東は朝鮮半島、西は中央アジア、北はシベリアの南部、南はインドシナ…

鎌倉時代 ~荘園と国衙領~ その当時の日本地方社会は、二重構造になっていた。当時の社会の基盤は土地であったが、それは朝廷の政治の支配のもとにあった国衙領と、貴族や社寺がもっいた荘園の二つに分かれていた。…

疑い深かった頼朝弟義経を滅ぼした頼朝は、猜疑心の強い人だったらしい。平氏追討の総大将をつとめたもう一人の弟範頼も、この猜疑心の犠牲になった。範頼は義経の死後、頼朝から疑惑をもたれないようにと、さまざまに腐心したが、伊豆の修禅寺に幽閉…

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猫は、真実を見ている。 はじめまして、黒坂メイ(ペンネーム)てす。「分かりやすい・簡単・安心して使える歴史ネタ」を提供し、「そうなんだなぁ」と歴史を身近に感じて頂けるホームページを目指しています。 宜しく、お願いいたします。

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