閉じる
  1. 猪苗代城の妖怪・亀姫
閉じる

歴史ネタ帖

「分かる・簡単・安心」の歴史ネタ 授業の雑談に安心して使えます。雑談力アップ・スキルアップ

 公武合体派 攘夷親征論が高まり、大和行幸の詔勅がはっせられていたとき、これとは違った考えのもとに重要な動きをする人々があった。攘夷という点では共通するところもあるのだが、「幕府を倒すというようなはげしいことをい…

 長州藩の動き 尊攘の動きを強く支えていたのは、長州藩であった。とはいっても長州藩は、はじめから尊攘の旗印を明らかにしていたわけではない。 混乱する政情の中で、長州藩がその主導権を握ろうとしたとき、まず掲げたのは…

 大和行幸の詔勅 8月13日には、大和行幸の詔勅が発せられた。これは、孝明天皇みずから大和に行幸し、神武天皇の山陵や春日神社に参拝するとともに、ここで御親征の軍議を固める。そのうえで伊勢神宮に参拝するというもので…

海を渡った遣米使節 万延元年(1860)1月、つまり、安政の大獄で吉田松陰や橋本左内が処刑されたすぐ後のこと、アメリカの軍艦ポーハタン号が江戸湾を出発し、アメリカへ向かった。 この…

安政の大獄 幕府に対する反対の声が高まる中で、大老・井伊直弼は、これをだまってみていたわけではなかった。 彼は、幕府の力を示し、その威信を高めるためにも、反対派をおさえこもうとした。そのために、尾…

孝明天皇と公卿たち​​ 幕府による条約調印は、朝廷の発言力を増すきっかけともなるものであった。​​ もともと江戸時代においては、朝廷は、政治についての発言をほとんどしないで過ごしてきた。政治の実権は幕府に…

攘夷の巨頭・徳川斉昭 徳川斉昭(なりあき)は、徳川御三家の一つ、水戸藩の藩主として活躍した人物である。天下の副将軍と呼ばれるような家柄であっが、斉昭は強硬な攘夷論者としても知られていた。​ 斉昭の攘夷論のもとにあ…

開国をめぐってアメリカ行きに失敗した吉田松陰​​​ 1854年(安政元)3月、ペリーが2度目の来日をして、日米和親条約を結んだころのことである。下田の港内にとめられているアメリカ軍艦をめざして、こぎ出して…

大老井伊直弼の決断 ただ通商条約案がまとまった後も、すぐには調印しようとしなかった。調印しなければ、条約を正式に結んだことにはならない。もちろん自由貿易をはじめることも、アメリカ公使が日本に来ることもできないわけである。…

ハリスの要求 1856年(安政5)8月5日、つまりペリーが日本を離れてから2年余りの後のこと、下田(静岡県)の玉泉寺の庭に、高い旗ざおが立てられ、アメリカの国旗、星条旗がかかげられた。風になびくこの旗を、真剣な目でみつめ…

さらに記事を表示する

猫は、真実を見ている。 はじめまして、黒坂メイ(ペンネーム)てす。「分かりやすい・簡単・安心して使える歴史ネタ」を提供し、「そうなんだなぁ」と歴史を身近に感じて頂けるホームページを目指しています。 宜しく、お願いいたします。

ピックアップ記事

  1. 猪苗代城の妖怪 加藤左馬助嘉明、同式部少輔明成御父子の節、猪苗代御城代堀部主膳相…

おすすめ記事

  1. 猪苗代湖(いなわしろこ)って、どうしてできたのかな?
ページ上部へ戻る