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  1. 猪苗代城の妖怪・亀姫
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歴史ネタ帖

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万延元年 万延元年遣米使節  77人 留学生5人 使節など行った人 新見正興、村垣範正、小栗忠順、森田清行、成瀬正典、塚原昌義、 玉虫左太夫誼茂(仙台藩の人、随行記を書くが後に戊辰の役の責 任で切腹させられた人)…

条約の締結 1854年(安政元年)1月、ペリーは再び日本にやってきた。もちろん、6ケ月前に渡した国書への幕府からの返事をもらうためである。 そして、前のときより3隻も多い、7隻の艦隊を率いたペリーの態度は…

開国への道日米和親条約 プチャーチンはさして問題を残さずに長崎をさったとはいえ、ベリーの強硬な態度と再度の来日のは、幕府当事者に思い枷となって残っていた。幕府や諸大名の対応…

ロシアの使節・プチャーチン 久里浜応接館でのペリーは、大統領フィルモアからの国書を日本の役人に渡しただけで、一応引きあげていった。江戸の人々が心配した「すわ戦い」という事件は、起こらないですんだのである。しかし、ただ引き…

 ​​黒船来航と日本​​​ 17生気の初め、つまり江戸幕府ができた前後には、ヨーロツパではイスバニア(スペイン)、ポルトガルなどの勢力が強大であり、アジア各地への進出にも積極であった。その波は日本にも及んできたのだが、や…

蝦夷の国 蝦夷というのは、東北地方の中央から北部にかけて住んでいた人々に対して、当時の都の人々がつけた呼び名である。もともと大和朝廷の勢いが、東北地方にまでおよんでいったのは、大化の改新以前からのことであった。それは大化のころに、この地…

期待をこめた都早良親王の怨霊をあそれた桓武天皇が、和気清麻呂の進言を取り入れ遷都を決意したのは、792年(延暦11)ころのことであったらしい。このとき長岡京の建設は、まだ終わっていない。むしろ、平城宮の諸門を解体して長岡にはこぶなど、工…

長岡京の建設 即位から三年の784年(延暦3)、桓武天皇は、山城国(京都府)に長岡京の建設をはじめた。「新しい政治をすすめるには、都をうつして、人々の心を新たにする必要がある。それに長岡は、水陸の交通が便利で、都をつくるのにふさわし…

桓武天皇の意気込み 781年、44歳という働きざかりで即位した桓武天皇は、ただちに乱れた政治を改めることに手をつけた。その第一は、優れた人材を登用し、問題のある中央・地方の官僚は厳しく処断することによって、律令政治を引き締めることである…

崩れる地方政治の仕組み 中央で権力争いが続けられていたころ、地方政治にも大きな変化が生まれてきていた。その主な現れとして、私有地の増大、地方官僚の腐敗などをあげることができる。☆耕地をふやす努力 朝廷が政治の基礎にしようとした公地公…

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猫は、真実を見ている。 はじめまして、黒坂メイ(ペンネーム)てす。「分かりやすい・簡単・安心して使える歴史ネタ」を提供し、「そうなんだなぁ」と歴史を身近に感じて頂けるホームページを目指しています。 宜しく、お願いいたします。

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