薩長同盟 1866年1月、長州の木戸貫治(孝允)は、薩長同盟を締結するために、京都の薩摩藩邸を訪れた。 連日歓待を受けたが、しかし薩長同盟の話しは薩摩側からは出ない。長州からも持ち出さない。いずれ…
江戸幕府の最後1867年の幕府と薩長1867年(慶応3)年1月、孝明天皇の跡をついで明治天皇が15歳の若さで即位した。 そのころ、徳川家茂の跡を継いだ15代将軍慶喜は、これまでの例を破っては旗本からも有能な人材を取用し、…
薩長同盟 ~西郷と竜馬~ 神戸の海軍操練所が閉鎖されると、薩摩藩の西郷吉之助は、竜馬を大坂の薩摩屋敷に呼び寄せた。西郷は、海軍についての竜馬の才能を高くかい、薩摩藩のために役立てようとかんがえていたのである。 その竜馬は…
薩長同盟 ~イギリス公使パークス~ 薩摩と長州に目をつけ、この両者の手を結ばせようとした一人は、イギリス公使パークスである。彼は1865年(慶応元)に来日し、公使の役についた。 「この人は疲れを知らない精励家で、その職…
手を結ぶ薩長反目しあっていた薩長 これに対して薩摩の人々は、そのような憎しみを長州藩に対して持っていたわけではない。しかし、頑迷な者たちよというさげすみはあったろうし、さらにこの機会に長州藩を抑えれば、…
長州藩と四国艦隊との戦い 攘夷に凝り固まっていた長州藩は、「五月十日を期して攘夷を実行する」という幕府の奉答を、そのまま実現しようとした。つまり、1864(元治元)年5月10日、下関海峡を通ろう…
薩英戦争 一方、薩摩藩は、一向にいうことをきこうとしない。かえって、生麦事件ののちは、「いつかはイギリス艦隊がやってくるだろう」と、沿岸の防備を固めることに熱中する有様であった。 186…
生麦事件 生麦事件は、次のようにして起こった。 先に記したように1862年(文久2)、薩摩藩の島津久光は、幕政の改革と公武合体をすすめようとして江戸まで出向いた。その帰途8月21日ことである。…
禁門の変と第一次長州征伐(征長) 8月18日の政変で、みじめな思いをした長州藩の中には、「このままではすまされない。もう一度京都へのぼって天皇を我が手におさめ、藩の意見を天下に広げていこう」と息巻く者がいた。久…
新選組と池田屋事件 8月18日の政変のあと、京都市内の警備に活躍したのが、近藤勇を隊長とする新選組である。彼らは、京都守護職・松平容保のもとで、その信頼と理解を頼りにしながら、特に攘夷の志士たちの取締にあたった…