ロシアの使節・プチャーチン
ロシアの使節・プチャーチン
久里浜応接館でのペリーは、大統領フィルモアからの国書を日本の役人に渡しただけで、一応引きあげていった。江戸の人々が心配した「すわ戦い」という事件は、起こらないですんだのである。しかし、ただ引きあげた
だけではない。「わが艦隊は、2・3日中にここを出発し、琉球(沖縄県)をへて中国の広東へ向かいます。けれども、明春には再びきますから、その時には私たちが満足するような返事をしてほしい」と、部下にいわせることを忘れなかった。
しかもも、「このたびは、四隻の軍艦であったが、この次に来るときは、わが艦隊の全部を率いてくる。したがって、軍艦の数はもっと多くなるはずだ」とおどしをかけたのである。
さらにペリーは、すぐに琉球に向かうのではなく、船首を北に向けて、江戸湾奥深くにススメさせた。おそらく、「日本人を驚かせてやろう。幕府も、『ペリーというやつらは、何をするかわからないやつだ』と、こわが
るにちがいない」とかんがえたからなのであろう。
こうしてペリーの艦隊は去ったが、その1か月ほど後の7月には、四隻の軍艦を率いたロシア使節プチャーチンが長崎に来た。
そのプチャーチンが差し出した国書には、次のようなことがしるされていた。幕府は、アメリカの要求に加えて、またまた難題を抱えることになつたのである。
ロシアの使節・プチャーチン 2
「ロシアは広大な国土をもっているから、これ以上国土を広げる必要はないが、あなたた(日本)とはなかよくいていきたい。ついては、千島と樺太(サハリン)の国境を決めること、また、あなたの国の港を開いて、わが国の船が自由に出入りできるようにすることなどを相談したい」
幕府側は、この国書に対して、なかなか返事をしなかった。そして、プチャーチンが二度目、すなわち二月に来た時、やっと「千島列島はエトロフ島までを日本領土とすること」を決めた。しかし樺太での国境の取り決めや港を開くことについては、相変わらずはっきりした取り決めをしなかった。
しかしプチャーチンは、早々長崎を立っていった。このころロシアは、イギリス、フランスとの戦い(クリミア戦争)をしていたので、日本に長くとどまっていると、アジアにいるイギリス艦隊との出会って戦いになるかもしれない。それを避けて、引きあげていったのである。
※クリミア戦争は、1835年から1856の間、クリミア半島などを舞台として行われた戦争である。
概要
フランス、オスマン帝国およびイギリスを中心とした同盟軍及びサルデーニャと、ロシアとが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャッカ半島にまで及んだ、近代史上稀にみる大規模な戦争であった。
この戦争により後進性が露呈したロシアでは抜本的な内政改革を余儀なくされ、外交で手腕を発揮できなかったオーストリアも急速に国際的地位を失う一方、国を挙げてイタリア統一戦争への下地を整えたサルデーニャや、戦中に工業化を推進させたプロセインがヨーロッパ社会に影響力を持つようになった。また北欧の政治にも影響を与え、英仏艦隊によるバルト海侵攻に至った。この戦争によってイギリスとフランスの国際的な発言力が強まりその影響は中国や日本にまで波及した。