王政復古の2日前
土佐の山内容堂は、こんなはずではなかったと自問自答したが、すべては手遅れだった。慶喜は完敗した。
この陰謀、慶喜はまったく知らなかったのか。実はそうではなかった。土佐の後藤象二郎は事前にこれを知り、二日前の夜、越前の松平春嶽のもとに急報した。驚いた春嶽は側用人の中根雪江を二条城に遣わした。
このときの慶喜の態度は不可解だった。
「余はすでに政権を返上した。将軍職を辞したれば、王政復古の号令があっても、致し方のないことだ」
と問題にせぬ態度を示した。まさか領地まで取り上げられるとは、夢にも思わなかったのだろう。慶喜はさらに「このことを会津と桑名には、言わぬように」と同席した老中首座の板倉にいった。
「かくありてこそ、天下泰平」
板倉はハラハラと涙をながした。慶喜はなんら手を打つことなく、欠席した。なにを考えていたのか。危機管理がまるでできておらず、こうしたときの慶喜の言動は理解に苦しむ。
参考図書『幕臣たちの誤算』 星亮一著より
慶喜の母が、公家出身の方であったことの影響が、かなり大きかったのでしょうか。幼いころから実母からの言葉を聞いて「王政復古」も望むところであり、武家の大将たる心構えができていなかったか?
「会津藩や桑名藩主には言わないように」とは、これでは、会津藩の武士は、犬死ですね。二本松藩でも同様のように思えます。みな武士道の信義を守って死んでいたのに。涙。。